日本人を強力に支配し続けた「軍国主義」は敗戦と共に突然効力を失った。
この規範をなくした捕虜収容所内の日本人に、何が起きたのか?
サンカルロス
将校が日の丸を米軍歩哨の煙草と交換するの図
ちと、どうかと思う
【目 次】
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1.はじめに
1946年、4年にわたる太平洋戦争は無条件降伏で幕をとじる。フィリピンのジャングルで生き残った真一たちは投降し米軍の捕虜収容所(Prisoner of War Camp)に収容された。
収容所には戦前から日本人と社会をがんじがらめに支配していた仕組み「軍国主義」は消滅していた。
そして戦後の民主主義は、敗戦直後の米軍の捕虜収容所には、未だ導入されていないのだ。
つまり収容所は、日本人が寄って立つ仕組みが何も存在しない、いわば無秩序とも言える特殊な時空間だった。
真一は1年半に及ぶ収容所で、逐一、その時その時点で見聞きし、体験したことを絵と文章で記録し続けた。
正に収容所は「日本人」と「日本文化」の本質が暴かれる実験所でもあった。
アメリカ軍が発行した戦時捕虜の証明書
ルソン捕虜収容所コマツシンイチ(51J-43984)
プリズンオフィサー、Robert T. Cowback
2.思想的に日本人は弱かった
ドイツ系の米兵がいうのに、米国は徹底した個人主義なので、米国が戦争に負けたら個人の生活は不幸になるという1点において、全米人は鉄の如き団結を持っていた。日本は皇室中心主義ではあったが、個人の生活に対する信念が無いので、案外思想的に弱いところがあったのだという。
(虜人日記・第3章「思想的に日本人は弱かった」より、紙の書籍P285)
3.アメリカ人の気質
米軍の兵舎付近での作業をしている時、PW(戦時捕虜)がいくらさぼっていても、係のガード以外は例外なしに干渉しない。日本人だったら何とか言ってみるところでも、この点は感心もするし、助かりもする。また、米軍同士でも、一方では事務所で忙しそうに仕事をしているのに、隣室では非番の者が、朝からレコードをかけたり、バクチをやったり、キャッチボールをやったり、ビールを飲んだりして騒いでいる。遊ぶ方も働く方も、全然関係の無い様な面をして、少しも遠慮せずにいる。日本人にはできない事だ。
人の事に口を出さん彼等の習性は、大いに見習うべきだ。
(虜人日記・第3章「米人気質」より、紙の書籍P293)
PWは最も腹を減らさんように絶対安静的姿勢でバスケットボールのコートの草取りをやらせられる。米さんは満腹の腹をいかに減らさんかと草取りも終わらぬコートでバスケットの練習をやる。
勝者と敗者の立場、正に反対なり。勝者と敗者の立場が対照的な間は人類は幸福になれない。
お互いの幸福のため、もっと平均にならねば
ヤセ衰えたPWと脂ぎって豚ならば
正に食い頃という感じの米さん
蕃刀片手に
日ねもすのたりのたりと
草取りをするPW
1946年8月2日 キャーネルにて
日本人が想像する捕虜収容所は、全く自由など許されない場所だろう。
しかし、真一達がいたアメリカ軍の収容所は、その想像とはかなり離れた世界だった様だ。
ガードに煙草の火を借りたり、
時間を聞いたり、見張りをさせたり、ガードも麻雀倶楽部の
オヤジと間違われてはたまらない
日本人捕虜:『オイ、今何時だ?』
米国人ガード:『十時』
4.『転進』という言葉の意味
アッツ島が玉砕し、キスカ島の兵力を後退させた時、「転進」という言葉が初めて新聞に出た。そしてその時、「転進」は退却でも敗戦でもないという事が大本営から盛んに弁明された。其の後ガダルカナル、ニューギニア戦線で盛んに転進が行われた。「日本軍に退却無し」という伝統を守るための言葉か、自己欺瞞か、ソ連の動向を恐れた外交手段か知らぬが、戦況不利の時は退却するのは兵隊の常でなければならんと思う。
ロシアがナポレオンと戦い退却を続け、それも清野法によってモスクワまで精鋭を引き付け、冬将軍の偉力を借りて最後に勝利を得た。また今度もスターリンはヒットラーの精兵に追われモスクワまで退却して、ここで彼を破っている。この場合予定の退却ということは言ったが、決して転進とは言わなかった。
(中略)
負け戦は負け戦として発表出来る国柄でありたかった。調子の良い事ばかり宣伝しておいて国民の緊張が足らんなどよく言えたものだ。もっとも今度の戦争は百年戦争だなどと宣伝されていたのだが、どう考えても本当のことを発表するべきだったと思う。外国をだますつもりの宣伝が自国民を欺き、自ら破滅の淵に落ちたというものだ。いずれにせよ、「転進」という言葉が出来てから日本は1回も勝たなかった。今度の戦争を代表する言葉の1つだ。
(虜人日記・第3章「転進という言葉」より、紙の書籍P304)
ネグロス島のジャングルで
圧倒的な戦力の差の中
アメリカ軍から追撃される日本軍。
ここでも転進(タイキャク)が使われた。
5.暴力政治に支配された収容所
捕虜収容所内の暴力団達
ストッケード内で何か大事が起こる予感
1946年6月13日
PWには何の報酬もないのに、ただ同様に使うのだから、皆がそんなに思う様に働く訳がない。我々正常な社会で月給を出し、生活権を握っていても、人は思うように使えないのが本則なのだから、PWがPWを使うなどそう簡単にできる訳がない。ところが、このストッケードの幹部は暴力団的傾向の人が多かったので、まとまりの悪いPWを暴力をもって統御していった。
といっても初めはPW各人も無自覚で幹部に対し何の理解もなく、勝手な事を言い、勝手な事をしていたのだが。つまり暴力団といっても初めから勢力があったわけでなく、ストッケードで相撲大会をやるとそれに出場する強そうな選手を親分が目を付け、それを炊事係に入れて、一般の連中を毎晩さそって、皆の食料の一部で特別料理を作らせこれを特配した。
相撲大会
タクロバン第一収容所
※相撲大会の勝者が暴力支配へ
そんな訳で身体の良い連中は増々肥り、いやらしい連中はこの親分の所へ自然と集まっていた。為に暴力団(親分)の勢力は日増しに増強され、次いでは演芸部もその勢力下に治めてしまった。一般PWがこの暴力団の事、炊事、演芸等の事を少しでも悪口をいうと忽ちリンチされてしまった。
(虜人日記・第3章「暴力政治」より、紙の書籍P310)
これが国際法で決まったPWの食物とか、増配を所長に嘆願すれば「世界的食糧飢饉だ。PWだけが腹が減るのではない。」と言う嘘か誠かか知らねども、腹の減るのはたまらない。
※右側のフライパンを持った小柄な男『せめて、このパンがもう1つあれば!!』
●1946年6月23日 日曜日の献立
朝:ジャガイモ(乾燥)と肉のドロンコをカンテンカップに7分
昼:グリンピースにソーセージ2本 カンテンカップに3分
晩:ビスケット8枚 玉子とヨーセージの煮込みサジに一杯
●1946年6月24日 月曜日の献立
朝:右図の如きパン一つ、チーズ一枚
昼:豆汁 カンテンカップに4分の1
晩:ビスケット6枚、キャベツ、タンコン汁カップに一杯
捕虜収容所内での数少ない娯楽が演劇だった。
しかし、演芸部の劇場は暴力団達の影響下に入っていた。
七月十八日劇場開きに米さんも大勢観劇に来た。女形さえ出場すれば唯、わけもなく喜び奇声を発す。
東京音頭や木曽節の女形は大人気。「下田しぐれ」のお吉の泣く場面でもカモンカモンと大声を出すあたり、この米さんも余り教養があるとも見えず。
戦後30年、真一は他界し1975年に虜人日記は出版された。
本を読んだ収容所時代の戦友(村田氏)が日記の登場人物として名乗りを上げ、収容所の演芸部の写真をお送り下さった。
写真がどのような経緯で撮影されたかは不明。
6.クーデター(暴力団を一掃)
MP(アメリカ軍の警察)に不当に集めた
皆の食料を没収される暴力団達
コレヒドル組が来てからすぐ8月8日の正午、MP(Military police,軍警察)がたくさん来て名簿を出して、「この連中はすぐ装具をまとめて出発」と命ぜられた。30名近い人員だ。今までの暴力団の主だった者全部が網羅されていた。寸分の余裕も与えず彼等は門外に整列させられた。彼等は自分の非業を知っているので処分されるものと色を失い、醜態だった。彼等には銃を持ったMP(アメリカ軍の警察)が付きまとっている。その内装具検査が行われ、彼等の持ち物から上等なタバコ、当然皆に分けねばならん品物、缶詰め、薬などが沢山出てきた。缶詰めその他、PW(日本人の捕虜)に配られた物は全て我々に返された。常に正義を口にし、日本人の面目を言い、男を売り物とする彼等が、糧秣不足で悩んでいる我々の頭をはねていかに飽食し、悪い事をしていたかが皆の前でさらけ出された。小気味良いやら、気の毒やら。
それでこのストッケードの主な暴力勢力は一掃された。しかし本部にほとんど人が居なくなったのでPW行政は行き詰まり、新たにPWの組閣を行わねばならなくなった。PWの選挙により幹部が再編成された。暴力的でない人物が登場し、ここで初めて民主主義のストッケードができた。皆救われたような気がし一陽来福の感があった。暴力団がいなくなるとすぐ、安心してか勝手な事を言い正当の指令にも服さん者が出てきた。何と日本人とは情けない民族だ。暴力でなければ御しがたいのか?
(虜人日記・第3章「クーデター」より、紙の書籍P316)
7.日本人の暴力性
PWになってから日本人の暴力性がつくづく嫌になった。もっとも戦争とは民族的暴力に違いないが、これとて弱者いじめの事が多い。日清、日露は強者に対する戦いであったが、日支事変は正に弱者いじめだ。こんな戦いを長いことやっていたので、日本人の正義感は腐ってしまったのだ。侠客も旗本に対抗してきた時代は、弱きを助け強きを挫く正義感があって大衆の味方だったが、近来のやくざは強きを助け弱気を挫くだ。弱者を寄ってたかって痛めつけ得意になっている。大東亜戦の南方民族に対するのと同じだ。そして強敵米軍が来たら、ろくに戦いもせずこのざまだ。軍閥と暴力団傾向は全く同じものだった。日本人の大部分にこの傾向があるのだから嫌になってしまう。今のやくざには正義も侠気も何もない。これからの日本には彼等が毒虫としてしか作用せん事は確実だ。
(虜人日記・第3章「日本人の暴力性」より、紙の書籍P323)
大東亜共栄圏理念の末路
投石
バカヤロー
ドロボー
イカオ
バッチョンゾー
8.陸軍と海軍は犬猿の仲
日本の陸海軍は事毎に対立的だった。それでもいざ戦争となると協力するので、仲の悪い夫婦の様だと評した人がいる。それは昼間はケンカばかりしていても不思議に子供だけはつくるからだという。大東亜戦で、陸海が本当に信頼し合って協力したのはマレー作戦までで、その後は加速度的に離反していったという。後には陸軍にも海軍ができ(陸軍で軍艦、潜水艦まで作った)、海軍は騎兵までできるようになった。そして陸海の国内における戦争資料の争奪戦は、米国との戦いより激しかったという。これも敗因の大きな原因だ。
(虜人日記・第3章「陸軍、海軍」より、紙の書籍P355)
9.日本人は命を粗末にする
日本人は自分の命も粗末にするが、他人の命はなお粗末にする。
「バアーシイ海峡の輸送は3割フィリピンに着けば成功ですよ」と軍首脳は平気な顔をしている。7割にあたる人間はたまったものでない。その他の作戦でも人員の損失は平気だ。米軍は敵の火力が全く無くなるまで火砲でたたき、誰もいなくなってから歩兵がやってくる、そしてこの時少しでも抵抗すれば逃げ帰り、また火砲を撃ってくる。この様に兵器が1つ破損するよりも、できるだけ人員損失がないようにしている。
日本は余り人命を粗末にするので、しまいには上の命令を聞いたら命はないと兵隊が気付いてしまった。生物本能を無視したやり方は永続するものでない。
特攻隊員の中には、早く乗機が空襲で破壊されればよいと、密かに願う者も多かった。
(虜人日記・第3章「日本人は命を粗末にする」より、紙の書籍P363)
1944年11月3日
サラビヤ飛行場
空襲直後の着陸
四式戦の無残な焼け残り
10.生物学の知識の欠如がもたらす結果
生物学を知らぬ人間程みじめなものはない。軍閥は生物学を知らないため、国民に無理を強い、東洋の諸民族から締め出しを食ってしまったのだ。人間は生物である以上、どうしてもその制約を受け、人間だけが独立して特別な事をすることは出来ないのだ。
(虜人日記・第3章「生物学」より、紙の書籍P333)
サンカルロス捕虜収容所にて
武田大尉が空腹の余り水浴を忘れ
蛙を捕えようとするも
果たすことが出来ない図
11.日本の敗因21か条
日本の敗因それは初めから無理な戦いをしたからだといえばそれにつきるが、それでもその内に含まれる諸要素を分析してみようと思う。
二、物量、物資、資源、総て米国に比べ問題にならなかった
三、日本の不合理性、米国の合理性
四、将兵の素質低下 (精兵は満州、支那事変と緒戦で大部分は死んでしまった)
五、精神的に弱かった (一枚看板の大和魂も戦い不利になるとさっぱり威力なし)
六、日本の学問は実用化せず、米国の学問は実用化する
七、基礎科学の研究をしなかった事
八、電波兵器の劣等 (物理学貧弱)
九、克己心の欠如
十、反省力なき事
一一、個人としての修養をしていない事
一二、陸海軍の不協力
一三、一人よがりで同情心が無い事
一四、兵器の劣悪を自覚し、負け癖がついた事
一五、バアーシー海峡の損害と、戦意喪失
一六、思想的に徹底したものがなかった事
十七、国民が戦いに厭きていた
一八、日本文化の確立なき為
一九、日本は人命を粗末にし、米国は大切にした
二十、日本文化に普遍性なき為
二一、指導者に生物学的常識がなかった事
順不同で重複している点もあるが、日本人には大東亜を治める力も文化もなかったことに結論する
(虜人日記・第3章「日本の敗因」より、紙の書籍P334)
12.猿公以下だね、ひがむなPW(おまけ)
ひがむなPW。
米国には動物愛護会というとてつもなく大きな団体があると言うがPW愛護会はまだ誕生せぬか?
食パン、草果、ミルクを食べたり飲んだりする猿を見て、「猿公以下だね」とPW。
1946年7月26日 キャネルの作業にて
13.まとめ
虜人日記は1944〜46年までの約3年にわたる真一の体験が、米軍捕虜収容所内で絵と文章に記されました。それらの冊子は骨壷に隠し日本に持ち帰る事ができました。
真一が1973年に亡くなるまで銀行の金庫で凍結していたこれらのドキュメントは、今に生きる私たちに何を伝えようとしているのででしょうか?
当時の歴史的背景など私達も知らない事がたくさんありましたが、できるだけ調べて解説を加えYouTubeに動画として再現しました。
真一が伝えたかった、あの場での、あの瞬間を私達も出来うる限り経験したいのです。