愛犬ぜまとの青春記録を通じ見える、100年前、戦前の日本の若者の生活や価値観とは!?
昭和8年(1933年)9月17日
日本犬保存会犬舎開場式
真一(左)と愛犬ぜま
はじめに
今日では、至るところに人とビルの近代都市、東京。
100年前の東京が豊かな自然に溢れていたとはとても想像しがたい。なにせ、東京にも山うさぎ、馬、鷹(タカ)、リス、ヘビ、キジなど多種の動物達がいたのだから。愛犬ぜまとの思い出を記した「ぜま一代記」は真一が東京の自然を謳歌した記録でもある。
ヘビと戦う愛犬・ぜま
「ぜま一代記」より
真一の青春時代、それは第一次世界大戦による日本経済の高揚とバブル、関東大震災(1923年)、追い打ちをかける世界大恐慌(1929年)、世界中で植民地を拡大させる帝国主義、日本国内だけでなく世界が激動して行った。
太平洋戦争へとつながるこのきな臭い時代に生きた人々は、どんな暮らしを送っていたのだろうか?
驚くべきは真一が記した愛犬ぜまとの記録から、奇しくも当時の日本が見えてきたことである。一世紀近く前、つまり戦前の日本の生活や考え方について、私達は極めて貧しい知識とイメージしか持っていなかった。教科書の歴史的事件に注意を奪われて、戦争に組み込まれて行く直前までの、日本人の豊かな生活感や考え方など、あまり関心を持つ事がなかった。だが、ぜま一代記からうかがい知る真一の青春時代のライフスタイルや価値観は極めて新鮮に感じた。
昭和8年(1933年)8月
多摩川にて友人たちと
真一(中央)
※AI技術で白黒写真をカラーで再現
真一と愛犬・ぜまの生きた時代の年表
真一が生まれた頃の東京・日本橋
1914年(大正3年)から1918年(大正7年)の4年間、ヨーロッパで勃発した第一次世界大戦(World War I)のお陰で日本は空前の好景気になる。
真一の父、小松録衛は、東京日本橋の横山町で皮製品を幅広く扱い、帝政ロシアなどにも販路を広げ隆盛を極め、幼年時の真一は裕福に育つ。
1923年(12歳) 関東大震災
関東大震災により小松家の家屋、店舗は全焼
1932年(20歳) 世界大恐慌(1929)の影響は家業を破産に追い込む。父親が真一名義で行った投資は失敗し、卒業前の真一が破産宣告受ける。
アメリカでは1,200万人が失業
恐慌の影響は全世界に広がる
日本でも翌年1930年から昭和恐慌が始まる
1929年(18歳)暁星中学卒業 東京農大入学
1930年(19歳)ぜま、北海道日高地方のアイヌ部落で産まれる
1931年(20歳)真一はアイヌ犬調査の時、北海道・荷負村にてぜまと初対面。翌年10円でぜまを買い取る。
1932年(21歳)東京農大農芸化学科卒業。大蔵省醸造試験場入所。日本犬保存会設立と同時に理事就任
1932年(22歳)ぜま、日本犬保存會第二回展覧会で日本犬保存会賞を受賞
真一(左)とぜま、日本犬保存会犬舎開場式
1934年(23歳)農林省米穀利用研究所入所
1936年(25歳)二・二六事件が起こる。(陸軍青年将校のクーデター)
1938年(27歳)ぜま、東京代々木山谷自宅にて大往生 享年九才
1939年(28歳)台東製糖入社 由紀子と結婚 台湾に赴任
1941年、真珠湾攻撃により日米開戦
1944年(33歳)真一、激戦地フィリピンへ送り込まれる
真一とぜまが生きた100年前近く前の生活
1932年、22歳だった真一は、渋谷の忠犬ハチ公のストーリーを世に広めた事で有名な斎藤弘吉氏などと共に「日本犬保存会」を設立した。
当時も、今日と同様、日本人は西洋の文化に憧れを持ちシェパード犬などの外来種を好んで飼うといった風潮があった。
そんな中、真一達は、日本固有の北海道犬などの種を守る目的で、「日本犬保存会」を設立した。
彼は、22歳の若さで理事にまで選出されたのだ。
昭和8年(1933年)9月17日
日本犬保存会犬舎開場式
真一(左)と愛犬ぜま
日本犬保存会賞賞牌
第二回展にて日本犬保存会賞受賞
賞牌は安藤照氏作(渋谷ハチ公銅像作者)
実際、日本犬の研究のため、北海道だけでなく樺太(現ロシア領)にまで足を運び、日本犬の生態を調査までしていた。
その論文「樺太と北海道の犬(小松真一)」は、今日でも社団法人日本犬保存会に大切に保管されている。
1930年代、真一は日本犬の調査のため、北海道そして、かつて日本の領土であった樺太(現ロシア領)も訪れていた。
北海道や樺太に住む先住民のアイヌ人達にも、犬の生態に関して聞き取り調査をしている点が興味深い。
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ぜまとの絆から、都会っ子だった真一は多くの自然のルールを知る
東京日本橋の都会っ子のお坊ちゃんだった真一が、後の戦地フィリピンの密林で半年間もサバイブできたのは、愛犬ぜまとの出会いが大きい。
真一は、大学を卒業して、社会人になった後も、プライベートでは、友人たちとキャンプを楽しんだり、愛犬ぜまと日光へのハイキングを楽しんだりする生活を送った。
群馬県・丸沼へぜまとハイキング
水遊びをするぜま
ぜまの横顔
今考えると戦前の東京の生活は可成りのんびりしたもので、犬を楽しんだり絵を描いたり、河童の研究をしたりし、それで居て今より仕事のはかがずっと行っていたのだから道楽も必要だと云うことになりそうだ。
「ぜま一代記」より
1927年、文豪・芥川龍之介が、「河童(かっぱ)」という短編小説を発表した。その小説は、当時の日本社会や人間社会を痛烈に批判していた。
当時の若者だった、真一は、芥川の刺激的な文学の影響を受けていたのだろう。そして、自身でも河童の絵を描くなどして、20代の青春時間を楽しんでいた。
河童に叱られるぜま
このバスケットに這入る事は山に連れて行ってもらへる事と決めて居たので、バスケットを見せると大よろこびにて自ら飛び込みぐるぐると廻って安定を得れば後はガサリともせず静かにして居る。
電車にて二時間位の処まで、毎日曜ごとに出掛け、一日山野を遊び廻って、帰りは又バスケットに収まって無賃乗車の常習者となる。
「ぜま一代記」より
バスケットの中のぜま
ぜまは誰が見ても可愛らしいので田舎のバスなら文句を云わずに乗せてくれる。
満員 バスへ犬を抱いて乗り込むのだから心臓も強いが当時は何んとなくのんびりして居た。
真一と愛犬ぜま
八丁湯の帰途、丸沼ホテルの近くで一休みして居た時、ホテルから出て来た貴婦人がチーズやハムを持って来て、ぜまを褒めながら御馳走してくれた。三人の大の男、山旅が続きそろそろ都会的美食に憧れて居た時なので垂涎萬丈「俺達にもくれないかなー」と漏らしたがマダムはくれなかった。
「ぜま一代記」より
ぜまの横顔はなかなかよかった
ぜまの若い時の話も紹介する。
真一は、愛犬家で渋谷駅前の『忠犬ハチ公』の物語を世に広めたことで有名な齊藤弘吉氏と親友であった。
お互い、東京の世田谷に住んでおり、電車でぜまを連れて、真一は齊藤氏のお宅にも訪問していた。
世田谷の齊藤弘吉さんの処の小型犬にシーズンが来たのでぜまをバスケットに入れ小田急で世田谷中原駅まで行き、齊藤さんの御宅へ行った。
時期が少し早かったので目的を果たさず、その晩再びバスケットに入れて山谷の家へぜまを連れて帰った。
次の晩鎖を放してやったらそれっきり姿を消してしまったので心配して居たら翌日、「ぜまが家に来て居ますから安心して下さい」と齊藤さんから連絡があったので安心したが、山谷から五つ目の駅の世田谷中原の齊藤さんの家まで一回バスケットに入れられて電車で行った丈なのに「感の良い奴」と皆に褒められた。
其の後は夜遊びに出る事は無くなった。
「ぜま一代記」より
ぜまの思い出は20年経った今日でも延々と尽きるところがない。北海道のアイヌ部落からひょっこり東京に出て来て、美人コンクールに出て優勝し、大阪のコンクールに犬ながら招待されたこともあり、家の人々からはもとより他の愛犬家達からも愛されポチの様な貞淑な女房を持ち、其の他数えきれぬ程の艶福を持ち、山に川に海に遊び廻り旨い物を食べて一生を終わった。
犬としても幸運児だったに違いない。
ぜまの冥福を祈り筆を置く。
リウマチで病床の一日昭和29年8月29日
「ぜま一代記」より
数々のぜまとの思い出は、下記のぜま一代記(小松真一、絵:1938年、文:1954年)に記録されています。👇
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当時、愛犬雑誌にも記事が投稿される程、ぜまは人気だった
真一のぜまは、日本犬保存会のグランプリを受賞したあとは、全国的にも犬好きの間では知れ渡る存在となった。
1938年のぜまが他界した時は、当時、愛犬家の間で人気だった月刊誌、愛犬手帳でも取り上げられた程だ。
この記事からは、太平洋戦争の数年前の日本が記されている。
ここに記される東京の生活は、これから迫りくる戦争の世界とは無縁なようにも思える👇
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ぜま亡き後、台湾赴任が決定。真一、人生の新しいステージへ
1939年、ぜまなき後、真一と妻、由紀子は新婚3カ月目で、台湾へブタノール製造の技術者として派遣されることになる。
台湾へ赴任が決定した。ぜまを連れていくか否か、色々考えて思い惑って居た昭和十三年七月の暑い或日、フェラリアの発作で住みなれた山谷の家の縁側で大往生をとげてしまった。
この日は犬友、澤田退蔵氏の御招きで歌舞伎に行って居、死目にはあえなかった。
「ぜま一代記」より
1941年頃、台東製糖の台湾人社員達と
(中段の左から5番目が真一)
1939年、米国は日本への石油の輸入を禁止する政策に出た。
日本は、備蓄された石油のみで、経済を回さなければならない苦境に陥っていた。
愛犬ぜまとの青春時代から、石油の代替燃料のブタノールを製造するための技術者としてのミッションが与えられた真一。
小松真一の新しい人生のステージの始まりだ。