『近い将来、太平洋戦争を経験した生き証人は一人もいなくなります。
そうなると、私達が本当に知るべき重大な真実まで消えてしまうのでしょうか?』
いえ、証人は消えても、証拠は生きています。戦地で記された日記が証拠として存在しているからです。
戦時中起きた事実を示す大方の資料は、敗戦と同時に日本軍によって、意図的に焼却されてしまいました。
その中で「虜人日記(りょじんにっき)」は戦地から骨壺に潜ませて持ち帰られ、戦後に手が加えられること無く凍結していた、貴重で希有なドキュメントです。
それは戦時のあり得ないような真実を伝えているからです。否定したくなる真実を見つめさせてくれる証拠として。
著者の小松真一が選択の余地のない異常事態の中に放り込まれ、生還するまでの3年半に及ぶ体験録です。
●虜人日記とは?
32歳になったばかりの小松真一は、妻と2人の子 を残し、軍属(民間のアルコール技師)として、 フィリピンの戦場に送り込まれた。
当時、既に日本の敗色は 濃く、真一は2年の間、死の危険をかいくぐり続け、 敗戦と同時に捕虜となり、収容所でその経験を記しました。
カラフルなイラストと共に描写されたドキュメントの総称が「虜人日記(りょじんにっき)」と呼ばれます。
●一切の着色のない、戦地で記された実録の数々
↑↑クリックすると様々な絵をご覧頂けます↑↑
※虜人日記は、1975年に筑摩書房より文字のパートが編集され出版されました。
そして、今日でも多くの方に読み継がれています。
第29回毎日出版文化賞受賞
(1975年)
【フィリピン・ルソン島の捕虜収容所の証明書】
CERTIFICATE
LUSON PRISONOR OF WAR #1.APO 75
I certify that Komatsu Shinichi 51J-43984
is a processed Prisoner of War, cleared by WCID.
ROBERT T. CUMBACK
Prison Officer
70年間、銀行の貸金庫に眠っていた
未公開ドキュメントをWebで公開中
【投降の際の日本兵(捕虜)とアメリカ兵との会話】
1945年9月1日 フィリピン・ネグロス島にて投降の際の日本兵(捕虜)とアメリカ兵との会話。米兵は22歳でオクスフォード大学の学生だった。
【山本七平氏が読み解いた小松真一の「敗因21ヶ条」の原文】
●重大な真実を知ることで、何が得られるのか?
人類は戦争の度に、もうあんな悲劇は繰り返すまい、二度と失敗しまいと学んではきました。
何を得るかは、否認したい真実がどこまで受け止められるかで決まります。
真一はこの間、何度死んでもおかしくないほど、命拾いを重ねました。これら究極の非常事態も淡々と描写されています。
奇跡が続いたから生き残れた訳ですが、なぜそうなったのでしょうか。
平和に暮らす私達にも、いつでも究極の非常事態は起こり得ます。そこまでいかなくとも日常に、受け入れがたい現実は起こります。その時、自分はどうするか?
70年経った今でも、大戦から学ぶべき最も大切なことです。
【大和盆地より御嶽山への登り口の絶壁】
アメリカ軍がネグロス島に上陸し、日本軍は武器も食料の準備がないまま、山岳ジャングルに逃げ込み数ヶ月が経ち、すでに壊滅寸前にあった。
更に山奥へと逃げ込むための登り口にある絶壁。
(注: 当時、フィリピンには、正式なスペイン語等の地名があった中、日本軍は日本語の地名を付けていた。)