危機が迫るのに、なぜ人は享楽に逃げるのか?
~1944年、戦況が急激に悪化した頃の事~
『山下大将着任前のマニラ
サイパンは陥落したというに 』
【目 次】
はじめに
戦況が急激に悪化する1944年(昭和19年)日本国内では物資の非常な不足で国民はあえぎ始めていた。
しかし、フィリピンに赴任した真一が目にしたのはマニラで享楽にふける日本軍だった。
『ホテルのダンスホールで、内地では聞けぬジャズをやっている。散歩する男も女もケバケバした服装だ。内地や台湾を見た目でマニラを見ると、戦争とは全く関係ない国に来たようだ。
「ビルマ地獄、ジャバ極楽、マニラ享楽」大東亜共栄圏三幅対(さんぷくつい)といわれただけのことはある。』
(虜人日記・第1章「マニラの印象」より、紙の書籍P19-20)
これらの状況を動画で再現してみた👇
『マニラの印象』
『軍管理事業部』
『和知閣下の印象』
戦時中の国家総動員、日本では全国国民が我慢を強いられていた最中、間近に大きな危機が迫る戦地のマニラには享楽が支配していた。
なぜなのだろうか?
2.大航空ぺエージェント(大航空ショー)
南方総軍の来る少し前、マニラ東飛行場(ニコラス)で大航空ぺエージェントがあるというので見物に行く。大いに期待していたので何んと出場機の少ないこと。出てきた機種はノモンハンの花形戦闘機だの南京爆撃のキ-21等、時代遅れの飛行機ばかり。こんなことで七月攻勢ができるのか心細くなった。それでも「米機来らば片っぱしから撃墜する」と豪語していた。比人(フィリピン人)要人は何と思ったことか?
(虜人日記・第1章「大航空ぺエージェント」より、紙の書籍P19-20)
キ-21に乗り日本からマニラに赴任。
その後、アルコール製造の技術指導の際
この飛行機でフィリピンの島々を移動。
3.べビューホテルの生活
【マニラ市 べビューホテル7階の住民】
右上の絵の左側が真一
右側がルームメイトの石村氏
ヤセとデブの名コンビ
(前略)べビューホテルは高等官だけのホテルだが、その住人のほとんど「打つ、買う、飲む」の専門だった。謡曲をやったり、尺八を吹いたり、本を読んだりする人は変人の部類だ。
日本の知識階級の集まっているこのホテルの品性は余り上等とは言えぬ。日本人の生活に趣味というか、情操というものが少なすぎるので、一歩家を出るとこの様な荒んだ生活になる。こんな生活で本当の仕事ができるわけがない。「一億一心」と内地では酒もなく、先祖伝来の老舗を棒に振って工場に徴用されている時、マニラだけがこんなデタラメな生活をしていてよいのか?それより日本人の品性が情けなくなった。日本人は教育はあるが、教養がないと或るアメリカ人が批評したというが本当だ。
(虜人日記・第1章「べビューホテルの生活」より、紙の書籍P25-26)
真一は、マニラの宿泊ホテルの
周辺の地図を作った
>>詳細はコチラ
4.女絶ち
マニラの町は淫売の洪水だ。夕方一人歩きの女は全部この主の女と見てよいくらいだ。ことにべビューホテルを中心にイサックペラー海岸通り等は、まっすぐには歩けない位だ。木陰から「カモンカモン」「ソクソクな」等と言い寄ってくるのはまだ程度のいい方だった。
マニラの生活は遊ぶことと決めている連中の中で、女絶ちはなかなか抵抗が多かった。別に女房に義理をたてたわけではないが、いつとはなしに国に帰るまでは精進すると決心した。淫売は冷やかすものと決めていた。
(虜人日記・第1章「女絶ち」より、紙の書籍P29)
【日本兵をホテルへ誘う街の女達】
昭和19年春頃のマニラ
イサックペラーの辻君達(売春婦)
戦争準備は大丈夫?
5.真一から妻・由紀子への手紙
手紙は当初、軍の公式ハガキで出された。
フィリピンから妻に宛てたハガキ
1944年3月5日発送分
マニラに慣れ始めた真一は、軍用機で日本に行き来する知り合いの高官に頼み手紙を日本で投函してもらう。
間に合えば、由紀子からの返信はその人がマニラに戻るまでに受け取り、留守家族のことも知ることもできた。
この非公式な伝書鳩の機会がどれほどあったかは分からないが、由紀子の手元には真一がネグロス島に移り、交信が途絶えるまで約半年近く36通におよぶ手紙が残されていた。
しかし最後の方の手紙には、戦況の悪化に伴い、次々に経験する奇跡的な命拾いの出来事を記しながらも、妊娠中の由紀子の身を案じ秘めた遺書ともなっている。
5A)マニラ生活の実態報告|1944年3月14日
今日で着任以来12日経った。
やっと夏の軽装が整った。
ざっと下図の様なカアー黄色の純綿の服を着て毎日出勤して居る。
帽子:15円
シャツ:50円
ベルト:15円
くつ:100円
朝7時起床、7時半から8時までの間に朝飯。
罐詰の魚に味噌汁 。
9時20分 自動車が迎へに来るので、これで役所まで海岸通りを15分から20分走る。
9時からラジオ体操 。12時まで仕事 。
昼飯 イモ、カボチャ入御飯に、味噌汁一杯、御茶一皿、ツケ物一皿 。
これが済めば2時まで休み(町の商店も大体(華僑の店以外)休む)
2時からラジオ体操、5時まで仕事。
5時20分頃自動車が来るので、これに乗り帰宅。
すぐ湯をわかし(ガスの瞬間湯わかし器があるからすぐ湯が出る)
汗を流してシャツと褌を洗濯して晩めしを食ふ。
これまたイモ、カボチャ入りの飯に一汁一菜、つけ物と云った具合。
これが済めば海岸に散歩。
ここには昔、米西戦争(注1)の時米艦隊に沈められたスペイン艦隊の残骸があり、世の移り変わりが恐ろしい位いに感じられる。
大船団が入ったかと思えば、また居なくなり、第一線がしのばれる。
1時間位してバナナを買って帰る事もあり、7時から偕行社(注2)へビールを飲みに行く事もありだ。
バナナは南洋キンチョウだけにて味は悪い。一本20銭~25銭。これを7、8本食べる。
本を読んで10時頃寝るというのが基本生活。
これに多少その時により変化あり。
ハシゴ酒をやれば麦酒はいくらでも飲める。
偕行社では1本40銭、町では4円50銭也。
町に飲みに行けば、女給はスペイン人、スペイン混血、フィリピン等おり、話がわからず 面白くない事甚だし。
比島人のピアニスト、バヨリニスト、アコジョン等がいる。
何かをやれと云えば注文通り何でも、女はしり振りダンス位はすぐやる。
まあ馬鹿騒ぎの、乱ちき騒ぎ。
内地からひょいと行ったのでは生活環境が違いすぎて歌も出ず、感じも出ない。
そして出る時は目の玉が飛び出る程の金を取られる。
珍プンカンプン何のことやらわけが解らん。
比島にはゲリラが沢山おり、地方は中々危険。
マニラ市でも10時過ぎの一人歩きは危ないとの事。
かえって良きブレーキ?
比人は米国のデタラメな生活を見おぼえて、勤労等を好まぬ様なり。
マニラにいるスペイン人、その他誰を見てもキレイな服を着、働いて居る所を見た事なし。
どうやって食っているのか不思議に思ふ。
町で1回ライスカレーを食べれば5~7円、タバコ(曙)8円、歯ブラシ8円。まあこんな調子だが実に良い品がある。
子供靴、輝に良いのが60円也。送る方法もない。
まあ大インフレというところ。
比島というところは日本人の子供を育てる所にあらず。
弱ったところ也。台湾の様な地味、堅実なところは少しもない。
スペインが敗れ太平洋とカリブ海の植民地の管理権がアメリカに渡った。
注2:偕行社(かいこうしゃ)帝国陸軍の将校や軍属高等官の親睦組織
●マニラでの真一の通勤スタイル
●かつて極東大会の選手宿舎だったホテル
5B)最後の手紙(遺書)|1944年10月4日
この手紙は戦時中実質的に最後の手紙。
日本から子供誕生の知らせは真一には 届いていないが、出産予定日(9月末)は過ぎている。
↓↓↓下記からが本文↓↓↓
レイテ旅行(約40日)を無事終えて、マニラに帰って来た。
もう10月4日。
御産も無事済んで良い子供が、また一人増えたと思ふとうれしい。
御苦労でした。産後の養生をしっかりやって下さい。
今度の旅行は実に危険なもので、危機一髪で数回命が助かった。
出発の時からの話をする。
8月24日 ガンジー(注:島崎技師)と二人でマニラ飛行場を出発。
ネグロス島バコロド市に着き一泊。
ネグロス島各地の酒精工場の増産指導を行う。
ファブリカというところ、世界一の大製材所があり、
五抱えもある大木が20分ぐらいで四分板になる装置など、
さすが物量主義の米国。大きな所なり。
8月30日 バコロドより海軍機でセブ島まで飛ぶ。
ここはマゼランが上陸して土人に殺された処。
海岸にその碑がある。
9月8日 100屯(トン)位の機帆団に乗る。
これは椰子の葉で偽装し武装した物々しき船なり。
これにてレイテ島に渡る。この辺から危険海域なり。
9日、目的のレイテ島オルモックに安着。
この船団は、我々が下船後、間もなく(1日後)空襲され全滅。
クワバラクワバラ。
6.まとめ
虜人日記は1944〜46年までの約3年にわたる真一の体験が、米軍捕虜収容所内で絵と文章に記されました。それらの冊子は骨壷に隠し日本に持ち帰る事ができました。
真一が1973年に亡くなるまで銀行の金庫で凍結していたこれらのドキュメントは、今に生きる私たちに何を伝えようとしているのででしょうか?
当時の歴史的背景など私達も知らない事がたくさんありましたが、できるだけ調べて解説を加えYouTubeに動画として再現しました。
真一が伝えたかった、あの場での、あの瞬間を私達も出来うる限り経験したいのです。