日本の生命線ブタノール量産

目 次

A)エネルギーの奪い合いは、
過去そして現在もなお戦争の火種になっている

戦前の日本は、石油をアメリカ合衆国に大きく依存していたが、1940年の対日制裁により石油の供給が断れた。国の基盤は崩壊し、備蓄した石油が枯渇すれば車も船も、飛行機を飛ばす事も出来なくなる。切迫した日本は1941年真珠湾攻撃により戦闘の火ぶたを切った。

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天然資源の豊富だったフィリピンは、約380年の長期に渡り、植民地支配がされていた。

【フィリピンの植民地の歴史】

スペイン時代333年間
(1565年-1898年)

➡アメリカ時代44年間
(1898年 – 1942年)

➡日本時代3年間
(1942年 – 1945年)

➡フィリピン独立
(1946年~現在)



日本軍は開戦と共にフィリピンに侵攻、数ヶ月でアメリカ軍を制圧、3年あまりで敗戦。

ゼロ戦の様な高速のエンジンにはオクタン価の高い燃料が不可欠だったが、ガソリンに代わり、発酵技術によって製造できるブタノールが注目された。ブタノールはガソリンとの親和性が高く、化学構造が似ているため良く混ざり、この点でも重用された。真一は東京農大で醸造発酵を学び、卒業後大蔵省醸造試験場、更に農林省米穀利用研究所で7年間の研修を重ね、当時この分野では先端の技術者だった。

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醸造発酵の研究をする

恩師でもある醸造学の権威、住江博士の推薦で、1939年(27歳)真一は台東製糖(株)でブタノール工場建設の特命を受け台湾に赴任する。ブタノールを量産することは日本の生命線にもなっていた。
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台東製糖の工場建設 真一(右前列中央)

技術的な視点から見た真一の行動と解説

今から70年以上前、当時のブタノールの意義を知る人はあまりいない。そんな中、真一とは親子ほど歳の離れた従弟、和田好正氏(現78歳、2015年時点)に真一のブタノール技術者としての意義を、真一と同じ科学者・技術者の視点から解説していただいた。同氏は東京教育大学(現・筑波大学)で真一の専攻と同じ農芸化学を専攻し、後に大手素材開発メーカーの技術畑を40年以上歩まれた。

B)当時の戦略物資、ブタノールとは!?

1.小松真一の時代とブタノール発酵

・第二次大戦時、高速航空機(ゼロ戦)用燃料として、高速度を得るためにオクタン価の高い(オクタン価100)ものが必要とされた。ブタノールがこの要求に応えられる燃料として、必要とされた。
ブタノールはガソリンとの親和性が高く、発熱量も高く(エタノールより30%も発熱量が高い)、ガソリンの代替燃料として理想的と言える。 また、ガソリンと0~100%までどのような比率で混ぜてもエンジンの改良なしで使える。 輸送に関しては、パイプラインなどがそのまま使える、などの利点があり、重用された。
・1930年代より、高オクタン価航空機燃料として、海軍は昭和農産加工(現メルシャン)八代工場、台湾の高雄などでの生産を計画した。陸軍は東亜化学興業(現協和発酵)防府工場での生産を計画した。

2. ブタノール(butanol)とは

ブチルアルコールともいう。化学式C4H9OHで表され、4種の異性体(同じ化学式
で表わされるが化学的に構造が異なり、化学的な性質が異なる)を有する。
・この文では、その内のひとつ、ノルマルブタノール(n-ブタノール)(小松真一・「虜人日記」に出てくるもの)について述べる。

〈性質〉
・無色の液体。沸点(bp)117.3℃、融点(mp)-90℃。水に溶けにくい。
 アルコール、石油系溶剤(ガソリン等)との混和性がよい。

〈用途〉
・燃料、溶剤、塗料等の原料

〈製法〉
・化学的製法、発酵法による製法があるが、ここでは発酵法について述べる。
廃糖蜜、トウモロコシ、サツマ芋、でんぷん粕など、でんぷん質の原料に、嫌気性細菌
(クロストリジウム・アセトブチリクムClostridium acetobutylicum等)を作用させて発酵させる。
ブタノールの他、アセトン、エタノールなどが生成する。
(アセトン・ブタノール・エタノール発酵、ABE発酵ともいう)
発酵終了後、蒸留器により沸点の差を利用して各成分を分ける。
ブタノールが全体の60%程度生成する。
(沸点:アセトン56.3℃、エタノール78.3℃、ブタノール117℃)

3.ブタノール発酵の盛衰

・アセトン・ブタノール発酵の歴史は古く、19世紀後半パスツール等によりブタノール生産菌が発見されている。
 アセトン・ブタノール発酵法を確立した人物として、ワイツマン(後にイスラエル国の初代大統領となった)が知られている。
・1930年代~1940年代には、航空機用燃料(前記)等に盛んに生産された。
・戦後、軍用需要がなくなったこと、石油化学工業の発展により衰退した。
・近年、石油の大量消費による資源枯渇の危惧と、地球温暖化から、発酵法による未利用バイオマスからの化学原料生産が広く模索されるようになり、1980年代初頭より、アセトン・ブタノール発酵研究の機運が増大した。

【参考文献】

1) ネット検索 Greener World 「ガソリン代替燃料――本命はブタノールか?」
2) ネット検索 アセトン・ブタノール発酵の展望について――糖質の多目的利用
(農畜産業振興機構)
報告:吉野貞蔵(九州大学大学院農学研究員准教授)2010.3.6
3)小林元太、生物工学 第89巻(2011年第6号)p.319~322
4)小林元太、生物工学 第92巻(2014年第12号)p.669~674
 (小林元太:佐賀大学農学部生命機能科学科准教授)
 (小林氏の論文については、ネットより「ブタノール発酵」で検索。ヒットしたものから選択して引用)
5)小原哲二郎、農産製造学総論(養賢堂 1959年)p.148~149
 (小原哲二郎:東京教育大学農学部農業化学科教授・故人)
6)岩波理化学辞典 第4版(1989年)

C)書籍「虜人日記」から読み取れる小松真一の功績

(特にブタノール発酵の技術、酒精製造の技術、フィリピンにおける生産活動に関して)(真一さんと同じ分野を専攻した一後輩としての感想)

1.フィリピンに行く前に 見ておくべき当時の最先端製造技術の見学

フィリピン(比島)の軍直営ブタノール工場建設要員としての拝命を受けて、まず
朝鮮無水酒精会社のショウラー法木材糖化と流動発酵、樺太・王子製紙へ亜硫酸パルプの
廃液利用、大岩源吾氏の流動発酵を見学、研究に飛んだ。(p.013~014)
(いずれも、フィリピンにおけるアセトン・ブタノール発酵の原料、効率的連続発酵のための研究に資することを目的としたと思われる。 戦争の激化・昭和18年後半期には、すでに日本は守勢に立たされており、台湾→朝鮮→樺太という移動はかなり危険を伴う旅行であり、勇気が必要であったと思われる(いつ敵機に、敵潜水艦に遭遇するか)。 ブタノール製造原料の逼迫、製造の効率化の要求に応えなければならなくなることを予想しての行動だったのではないか?)

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真一が記したブタノールの生産設備の図

2.フィリピンにおけるブタノール工業の中止(虜人日記p.036)

・真一はフィリピンでのブタノール試験工場設立要員として陸軍に徴用され、将校待遇の軍属としてフィリピン・マニラへ派遣された。
しかし戦況悪化から資材難と、燃料石炭の運搬困難により、ブタノール試験工場の設立計画は自然解消となり、真一と辰井技師はフィリピン派遣の目的が達せられなくなった。
当時、内地、台湾には発酵技術者が不足していたので至急帰国させるよう、軍に掛け合ったがラチが明かず、以後、フィリピンにおいては自動車用燃料としての酒精(エチルアルコール)の生産指導にあたることになった。
 

3.マニラにおける、アメリカ人、スペイン人等、先の統治者の設計した酒精工場の視察。(虜人日記p.030~031)

・台湾での自分の工場の技術と詳細に比較し、「いたずらに高純度の製品を目指すより、知識・技術のない現地人でも実行可能な、戦争目的に対して必要充分な製品を目指すことの重要性」を認識。人の飲料用でない、自動車燃料用だから、アルデヒド、フーゼル油の除去工程など、無駄な工程は一切考慮せず、ひたすら燃料生産の効率を上げる、という合目的性(実用向き)を求める(過剰品質の追及はムダ)ことの重要さを認識。

4.ヤシ林の調査・ヤシ林の広さから、ヤシ本数、成育量からコプラ油、活性炭、燃料の量などの定量的検討(虜人日記p.031~034)。

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椰子林の調査

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真一がメモしたブタノールの原料の収穫情報

【メモの詳細】
椰子山
 ・1ヘクタール当り椰子150本
 ・1本の椰子から年40ケ
 ・ヤシの実 5000個からコブラ1屯
 ・コプラから油60%
 ・コプラミル  50%
・ヤシ1ケ  1000~1400g
    外皮   460g
    外殻   225g
    コプラ   259g
 水     150g
・枯葉 1ヘクタール当り  1年1屯(トン)
・実生後 7~8年でなりだし
  30~70年が良し
  開花より10か月で収穫


5.酒精生産指導について

 ①イビイル酒精工場(虜人日記p.043~044)
 糖蜜を水にブリックス20度(蔗糖濃度20%)位にして、硫酸を加えて酸性にし、
 この液中に蔗茎を吊るしておき、自然発酵により酒母(高濃度酵母液)を作る。
 (内地の酒造工場よりはずっと簡略な方法で、「指導に来たのか教わりに来たのか判らん位」と素直に勉強し、現場に適合した技術の習得に努めている。)

②ネグロスの酒精大増産指導(虜人日記p.053~054、 p.059~060)
 ロペス、マナプラ、タリサイ、ビナルバカン各工場の各工場に順に泊り込みで成績が上がるまで指導した。
③ロペス酒精工場:1日平均ドラム5~10本しか生産出来なかったところへ、糖蜜、砂糖を原料とし、酵母の栄養として硫安を加え、1週間後には1日ドラム70本生産できるまでに改善できた。(前記、イビイル工場での勉強の成果が表れたか?)
④マナプラ酒精工場:現地フィリピン人職工の非協力で生産が上がらなかったのを、兵員を使用して約1週間かけてアルコール製造技術を教え込み、生産能率を上げるに成功した。 後にこの工場の設備を使ってビタミン剤製造も行った。(酵母菌体を利用してのビタミン剤・エビオスのようなものか?)

・これら各工場の酒精生産指導は、毎日の敵襲・コンソリ(コンソリデーテッドB24爆撃機のこと)の爆撃、グラマンの機銃掃射など、薪の収集の困難、原料糖蜜、砂糖の確保
フィリピン人職工の非協力、兵員への技術指導など、日々戦況不利を増す中での文字通り命がけの困難を克服しつつ、行われた。

6.河本司令官に意見を直言(虜人日記p.063~064)

毎日の米軍空襲、米・比(フィリピン)軍ゲリラによる妨害の下、酒精増産の目標を達成すべく、司令官河本大佐に具体策(現地人労働者を頼らず日本兵を以て生産、燃料・薪の運搬を行う、製造歩合増強のため、原料糖蜜の集中運搬等)を進言し、協力を得られた。
軍司令官といえば最高に“エライひと”であり、これに臆せず自分の意見を主張し、威光を巧みに利用するのは仕事(生産増強)を達成するうえで勇気の要るすごいことであったと思われる。(戦地における軍司令官の権威は絶大)

7.空襲で破壊されたボイラーの代わりに機関車3台を転用。(虜人日記p.068~070)

(形状も使用目的も全く異なる機関車のお釜(挿絵参照)を、酒精蒸留器の加熱源に転用しようという機智をどうやって働かせるのか?机に座って指揮だけするおエライ「技師様」には到底出来ない発想と思う。現場で百戦錬磨した、頭脳の柔軟な、そして度胸の据わった、独創性と実行力のある、たたき上げの「技術屋」でなければ)
(まさに破天荒な発想の転換であったと思われる)

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ロペス酒精工場 爆撃でボイラー全壊につき、機関車を総動員す

敵襲で生産設備、原料、運搬手段などが次々に破壊される非常事態下、特に米軍の空襲下、いつ爆弾、機銃掃射で生命を奪われるか判らない状況下での、この機智は素晴らしいと思う。平時においても技術者には不慮の災害、事故などに適切に対処して目的を達成する臨機応変さが求められる。まして、戦争という超非常事態下においては、すくんでいたら目的達成はおろか、自分や部下たちの生命を危うくする。

……それにしても、あの2011.3.11。東日本大震災。東京電力福島原発にこのような有能、果敢な行動を取れる「技術屋」が一人でもいたら、これほどまでの大惨事にはならずに済んだのではないか、と悔やまれる。あの、すべての電源が断たれてしまった超非常時に、素早く原子炉を冷やす知恵を出し、実行できる「技術屋」が一人でもいたら……。

・真一の機転は、空襲対策(虜人日記p.075~076)でも発揮され、部隊の危機を救った。
 また、敵襲に抗しきれず、酒精工場に点火、放棄して(p.090)ネグロス山中に入り、食糧がなく、自活を余儀なくされた時、野草から食べられるものを探し、行動を共にした仲間と共に命をつないでゆくにあたって、大学で得た栄養学等の知識、学生時代に山歩きして鍛えた体力と体験をフルに回転させたこともあげられる(虜人日記p.103~105、177~178)。

8.ビクトリヤスに新酒精工場建設(虜人日記p.086~087)

マナプラ工場の蒸留器を解体、ビクトリヤスに運び、短い期間、少ない人数(それも技術に未熟な)を指揮し、ズブのシロウトの兵隊を教育しながら、敵襲を避けながら
新工場を立ち上げ、生産を開始した。

〇各工場において酒精増産の指導を行い、成果を挙げた。それぞれの工場で遭遇する問題点を解決しながら軍の要請に応えて来た。
・技術者であるから現場の問題点を創意工夫で解決して生産実績を挙げなければならないのは当然ではあるが、ここで、これが平和な時のことではなく、戦時、特に日本が戦況不利、次第に敗戦に向かって追い詰められつつある超非常時のことだったことである。
敵機による空襲、爆撃、現地フィリピン人職工の離反、敵方への寝返り、生産妨害、と闘いつつ、酒精原料の糖蜜、砂糖、燃料薪の入手の困難、兵員の職工の教育など、平時には考えられない困難な問題点を克服して生産実績を挙げるには、単なる創意工夫のみでなく、生命の危険をも冒しての気力、胆力、軍上部や、兵士、職工たちとの折衝力、統率力などが要求されたことであったと思われる。

〇この事は、岡本部隊長の賞詞(虜人日記p.088)に詳しい。
真一の業績について詳細かつ具体的に述べているので以下に全文を引用する。
(カタカナの部分は固有名詞以外をひらがなで、旧漢字を新漢字で置き換えた)
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真一が尊敬していた岡本部隊長から受けた賞詞

賞詞
陸軍専任嘱託
小松真一

 右の者昭和19年11月以来自動車用燃料たる酒精生産指導の為本職の区処下に入らしめらるるや克くその目的を理解し昼夜に亘る敵機の銃爆撃及び執拗なる敵匪の妨害を敢然克服突破して「タリサイ」「マナプラ」「ファブリカ」各酒精工場の指導を適切ならしめ三工場を合し日産平均2万リットル以上を生産せしめ克く「ネグロス」島航空軍陸上軍の要求せる自動車用燃料を確保せり 偶々昭和19年12月21日1100(午前11時)敵機B24 7機の為「ファブリカ」酒精工場を又昭和20年1月17日12時~14時の間 敵機B24延約60機(1機~7機を以て14回に亘る波状攻撃)の為「タリサイ」酒精工場大破炎上するや直ちに該工場に馳せ参じ復旧作業の指導を適切にし爾後の復旧を迅速ならしめ或いは「ビクトリアス」「バコロド」「ラカロタ」各製糖工場を利用して酒精工場を開設する準備を着々と進捗せしむる等積極的に酒精生産増強をなせるは軍に貢献せる事極めて大なり之れ一に小松技師の烈々たる尽忠報国の精神に基くものにして其の崇高なる精神に基く行動は衆の模範たり
拠って茲に之を賞す

昭和20年3月21日
部隊長陸軍中佐 正6位勳5等 
岡本熊吉



・この「賞詞」は本書p.056「岡本部隊長」からp.088「岡本部隊長転勤」までに書かれた真一の業績のすべてを余すところなく記述している。

・これ程に部下の業績を具体的かつ詳細に把握し顕彰した上司を他に私は知らない。
岡本中佐は軍にあって部下将兵に慕われる指揮官であり、平時においても有能な指導者であったと思われる。

9.余技の活用と仲間へのサービス

・醸造の専門家だから、お酒、ワイン、ウイスキーの製造はお手のもの。
・タリサイ工場でのウイスキー製造。ネグロスの全軍に配給、正月元日(昭和20年)の
 部隊の宴会用(虜人日記p.070~071)。
 空襲下にあっても心の余裕。部隊の仲間にも喜ばれ、仕事の遂行にあたって協力が得られる元になっている。
・捕虜収容所の中でも、美味い酒を「密造」して皆に配り、大いに喜ばれている(虜人日記p.240~241)。
・捕虜生活のなかで、ある1週間の糧秣( ration)のカロリー計算を行いこのデータをもとに捕虜収容所幹部に改善要求をし、容れられた(p.319~371。詳細なデータ表あり)。
 (栄養学の知識の活用)

10.ネグロス山中彷徨時の生命力発揮

・米軍ネグロス島上陸により昭和20年3月30日、酒精生産を断念、ビクトリヤス工場に点火、爆破してネグロス山中を逃避行、9月1日、敗戦を受け入れてサンカルロスに投降
 するまでの、米軍の追撃を避けながらの、物資不足、飢餓に耐えながらの、部隊の統率、皆の生命維持に、真一の不屈の生命力が発揮された。
・軍属(兵ではない)とはいえ、将校待遇であるから、軍という集団の統率維持、所属員の生命、健康維持に責任があったであろう。
・入山初期にはまだ軍隊の形態をなしていた。兵団参謀部勤務となり、現地自活研究指導班を組織(虜人日記p.116~117)。
・糧秣の残量が乏しくなる中、食べられる植物の調査(牧野・「日本植物図鑑」月明・「食用野草図鑑」を参考に)、将兵に講習(虜人日記p.103~105)。
・現地利用物資講習(トカゲ、蛇、蛙他の動物)、現地自活建設隊を組織(芋等を栽培)
 (虜人日記p.118~120)。
・芋の食べ方など講習(虜人日記p.161~163)
・他部隊からはぐれ、行き倒れた兵(学徒出陣兵・東大英文科)を助ける。粥を炊いて届け、ビタミンB剤を与える友情。自分も乏しい食料の中から。
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食用野草採集研究行 イラクサ谷にて

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「このイラクサの茎と葉が食べられます。」

11.敗戦を知り下山、9月1日、サンカルロスに投降、捕虜(PW)となる。

・祖国へ帰還の日まで、敗戦で意気消沈した将兵戦友たちの元気を鼓舞しようと真一は工夫を凝らした。自ら立案、計画、主宰し、あるいは仲間の計画に積極的に参加して盛り上げたり。
・収容所内で美味い酒を「密造」。醸造学講師の面目にかけて。好評で仲間に喜ばれる
(p.240~241)(前出)
・外業(米兵食堂の使役)に出てお土産(パン、チーズ、ミルク缶、りんご等)を大量に貰って帰り、皆に振る舞う(p.227~228)。
・教養講座の開設(p.205~206)
 向学心のある人たちの為に。政治、経済、文学、農業講座など。真一は農産加工、醸造の話。
・講演会等(p.254~255)
 演芸会、映画、ミツバチの飼い方、鶏の飼い方、シイタケ、養魚法、園芸、科学講座、宗教講座、文学、俳句入門、他。真一は醸造と化学工業、水飴、日本犬の話などで会を盛り上げた。
・新聞の発行(p.258)。従軍記者の活用。真一も得意のマンガを描く。
・掲示板を利用して質疑応答(p.321)真一の受け持ち。
 石炭の成因、食物のカロリー測定法、酵素と酵母の働きなど、教養豊かな物から少々文字にし難い話題も(本文参照)。
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英文で書かれたカロリー計算表

D)小松真一はどうしてこのような人間になれたのか

1.生来の資質
・父禄衛と母逸子から受け継いだ英明さと健康体
2.恵まれた成育環境
 父、母、姉の影響。伯父、叔父たちの薫陶を得た。
3.暁星学園の自由な気風、フランス人教師の教育による国際的感覚の涵養。
 多くの友人達に恵まれ、切磋琢磨しつつ育った。
・物怖じしない性格、言うべきことは目上でも臆せず主張する性格はここで育ったのではないか?
・罰で立たされながらタイ焼きを食べるような(p.216)ヤンチャな性格も。
 包容力、指導・統率力の芽も育ったのではないか
4.東京農大の質実剛健、実学を重んずる教育
多くの恩師、友人達の影響を受けたと思われる。専門の醸造学のみでなく、農学一般、生物学、栄養学の知識を幅広く身に着けたのが、ブタノール、酒精製造の技術開発において役だった。その他、食に関する広い知識、応用力を身に着けたのが、ネグロス山中を彷徨した時、糧秣の欠乏、飢餓の中で自然の動植物を食用にして多くの仲間の生命を救ううえで役立った。
5.農大卒業後、実業に入る前の大蔵省醸造試験所、農林省米穀利用研究所での経験
多くの同僚、先輩たちとの交流もまた、役に立ったと思われる。
6.山歩きで身体を鍛え、耐久力の涵養、危険に遭遇したときの対処の仕方、仲間との協力、統率の仕方、体力の温存の方法などを身に着けた。
7.愛犬「ゼマ」との交友。動物への愛、ひいては植物、自然への愛を育んだ。
8.人の面倒を見る習慣が、いざという時に人を引き付け、統率しやすくする、という知恵を自然に身に着けた。

以上、「虜人日記」を読み返して、小松真一のフィリピンにおけるブタノール生産活動(ブタノール計画中止後は酒精生産活動)に絞って感想を述べた。 主として、真一の醸造技術者としての偉大さ、そこに垣間見える真一の人間の大きさについて考えた。 同じ分野の学問、技術を学んだ後輩として、もし自分がこの大先輩と同じ立場に立たされたら、と考えて、足下にも及ばないことを痛感させられ、身の震える思いをした。
  
「日本の敗因21カ条」(p.334~335)については山本七平氏の詳しい紹介があり、ここでは触れない。
以上

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