小松真一とは?

虜人日記の著者の小松真一ってどんな人?

小松 真一(こまつ しんいち)
※写真左
1911年 – 1973 虜人日記著者 
ブタノール量産工場建設のため台東に赴任 
自宅のパパイヤの前で

1.青春時代

1911年(明治44) 東京日本橋の大店の長男として生まれ、のびのびと不自由無く育ちました。しかし、世界恐慌の嵐が吹きあれ、日本も第二次世界大戦へと巻き込まれていく青春時代、父親が真一名義の事業に失敗したため、大学卒業と同時に真一自身が破産宣告を受けてしまうことになりました。

幼少から剣道に親しみ、曉星中学時代から東京農大、そして卒業後も登山やキャンプ、ハイキング、渓流釣りなど、自然の中で遊ぶことが大好きでした。身体は痩せていましたが、いたって健脚で、密林の逃避行で生き残れたのも運が良かっただけではないように思えます。

母方の親類の影響もあり、質素な侘び寂びの美学を自然に身につけていました。それが、柔軟に「今」を生ききる知恵となり、どんなに貧しく困難な時でも、楽しむ術を発揮しました。密林の動植物でさえ、いつも美味しく食べようと心を使いました。戦後の貧困な時代でも、決して風流を忘れる事はなく、生活を楽しみました。

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愛犬家の真一(1937年、真一26歳)

子供の時から多くの犬や鷹などを飼い、学生時代から日本犬保存会の設立にも関わって、理事にも就任しています。卒業論文の樺太犬の研究で、北海道日高アイヌ部落に調査で立ち寄ったおり、発見したアイヌ犬に一目惚れで入手しました。ぜまと名ずけられ真一の人生に大きな影響を与えています。山河を共に過ごし、真一が結婚するまでの青春のパートナーでした。台湾赴任が決まり、ぜまを連れて行くか否か迷っていた時、ぜまは亡くなり、真一は、絵本「ぜま一代記」を描き残しました。

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「ぜま一代記」真一の人間性が表現されている

2.ブタノールの先端技術者として戦場に

東京農業大学では醸造醗酵が専攻でした。父親の事業の失敗で真一自身が破産宣告を受けたため、給与が受け取れないので、研究者としての活動に勤しむことになりました。大蔵省醸造試験場、そして農林省米穀利用研究所と、計7年間にわたる醗酵蒸留の研究は、真一をブタノールの権威者へと育てることになったのです。

石油の供給を絶たれた日本軍にとって、ガソリンの代わりにブタノールを量産することは、戦争を続けるために不可欠でした。それが台湾でのブタノール工場建設の特命を受けることになり、更にフィリピンに送られることに繋がっていくのです。

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発酵微生物の研究をする

台湾への赴任直前に結婚。ハネムーン4年の間にブタノール量産化に成功。この間、太平洋戦争に突入。1943年、軍からフィリピンでのブタノールの生産指導を命ぜられました。家族と共に日本に一時帰国しますが、既に敗色は濃く、東シナ海は危険に溢れていました。
軍属ですが兵と同様、真一は死の危険をかいくぐりフィリピンの島々を行来し、ブタノール増産に邁進します。

マニラからは妻に手紙を送り続けました。飛行機で日本と往復をする高官達に手紙の往復を依頼できる立場を最大限に活用したのです。妻の手元に残された手紙を通して、戦地と同じく内地でも、急激に危機に瀕していく状況を読み取ることができます。

最後はアメリカ軍の上陸と共にネグロス島のジャングルに逃げ込み、かろうじて生き残り、敗戦を迎え捕虜として収容されました。
この命懸けの2年間の体験と、1年半の捕虜生活を収容所内で記録して、それらを日本に持ち帰ることができたのです。

3.戦後はゼロからのスタート

戦災で家財は全て焼失しましたが、家族は全員無事。帰国後は全くのゼロからのスタートとなり、両親、妻、4人の子供の家族8人を真一独りの収入で支えることになりました。
食品、醸造関連の事業を色々と手がけましたが、ずいぶん苦労をした様です。晩年は飲料アルコール原料の共同購買組織をつくり、原料の開発輸入など、醸造の専門性と創造力を生かしました。真一の人柄から組合の酒造事業者の方々の篤い信頼を得ていました。

1953年突然痛風を発病して以来、アウトドア活動を諦め、亡くなるまでの20年の間、身の回りのものを我流の日本画で楽しむ日曜画家でした。美濃紙に墨と和絵の具、遺作は4人の子供達で分け、各自の家庭で現在もなお楽しんでいます。
三男一女の父。1973年脳溢血のため逝去、享年61歳。

自宅で絵を描く真一

4.略歴

【略 歴】

1911年(明治44)東京日本橋・横山町で生まれる
1923年(大正12) 関東大震災
1929年(昭和4)暁星中学卒業 東京農大入学
1932年(昭和7)東京農大農芸化学科卒業 大蔵省醸造試験場入所
        日本犬保存会設立と同時に理事就任
1934年(昭和9)農林省米穀利用研究所入所
1939年(昭和14)台東製糖入社 秋鹿由紀子と結婚 台湾に赴任
1941年(昭和16)太平洋戦争勃発
1943年(昭和18)フィリピン行きの命を受け、台湾から家族全員で日本に引き揚げる。
1944年(昭和19)家族を妻由紀子の沼津の実家に疎開させ、マニラに赴任。島々を命懸けで行き来し、最後はネグロス島。
1945年(昭和20) アメリカ軍の上陸と共にジャングルに逃げ込み、半年間生きながらえる。敗戦と同時に投降し捕虜となる。
1946年(昭和21) 年末に日本への帰還
1947年(昭和22)藷類加工技術研究協議会(農林省外角団体)設立 常任理事
        久美愛化学工業(株)取締役工務部長
1950年(昭和25)同社退社
1951年(昭和26)東京農産(株)翌年解散
1955年(昭和30)小松真一事務所
1959年(昭和34)北日本蒸留酒業者原料購買協同組合 設立
1965年(昭和40)日本アルコール原料共同組合に社名変更 
1973年(昭和48)脳溢血のため死去
1974年(昭和49)私家版『虜人日記』刊行
1975年(昭和50)筑摩書房『虜人日記』刊行 毎日出版文化賞 受賞
2005年(平成4)ちくま学芸文庫『虜人日記』発行
2013年(平成12)真一・由紀子の法事で家族全員が集まり『虜人日記WEB博物館』の設立を決める

Web博物館へ入場