虜人日記とは

虜人日記(りょじんにっき)ってどんなストーリーなの?

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戦地から骨壷に隠して持ち帰った記録
※参考資料:各日記帳の詳細を見る

1.虜人日記(りょじんにっき)のあらすじ

32歳になったばかりの小松真一は、妻と2人の子 を残し、フィリピンの戦場に送り込まれました。石油供給を断れた日本軍は、代用ガソリンのブタノールを発酵・蒸留で量産する先端技術者(軍属)として真一を徴用したのです。

家族と共にいったん台湾から日本に戻りフィリピンに渡り、思いもよらない過酷な現実に次々遭遇しながらも奇跡的に生還しました。
出征から帰還まで3年余りの体験が、次の三部からなる構成で「虜人日記」としてまとめられました。
第一章:漂浪するヤシの実、第二章:密林の彷徨、第三章:虜人日記

全3部作
1部:フィリピンの島々の移動生活
「漂浪する椰子の実」(ひょうろうするやしのみ)
 
期間:1943年7月〜1945年3月  
命を受けてから戦地へ、退廃する日本軍、決死の島めぐり、爆撃下での活躍

(第1章の詳細はココ)

2部:ジャングルでの逃亡生活
「密林の彷徨」(みつりんのほうこう)

期間:1945年4月〜9月  
米軍上陸と同時に逃げ込んだ山岳ジャングルで、投降まで爆撃・飢餓との闘い

(第2章の詳細はココ)

3部:米軍の捕虜収容所の生活
「虜人日記」(りょじんにっき)

期間:1945年9月〜1946年12月  
敗戦と同時に捕虜となり、収容所内での生活。同胞そして米兵を観察、戦争と日本人自身を見つめ直す。

(第3章の詳細はココ)



記録は文章だけでなく、たくさんのスケッチやデーター表、書類などが含まれています。
特に当時の現実を視覚的にイメージさせる沢山のイラストは、極めて貴重な一次史料としての証拠なのです。

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休日の第12労働キャンプ
日記はこんな雰囲気の中で描かれた

“絵具がないので医務室から薬をもらってきて色を出す。
アテブリンで黄、赤チンで赤というように。
菊皿代用は机の板、筆はマッチの軸木に脱脂綿を巻き付けたもので代用。
それでもどうやら絵ができる。”

2.奇跡の連鎖

何度も奇跡的に命拾いを重ねた真一は、「書く」ことなど到底考えられない非常事態にでもメモを残し、それを基に収容所で「漂浪するヤシの実」「密林の彷徨」を書きました。

フィリピンで同じような体験をされた山本七平氏は、「あの状態でこのように克明な記録を続け得たということは、私にとっては一つの驚異である。」と虜人日記のあとがき(p385)で述べておられます。

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ジャングルで逃亡中、軍隊手帳のメモは
「密林の彷徨」基となった

帰還の際のどさくさで、様々な理不尽な理由で、これらの日記は没収されかねませんでした。日本に早く帰還した戦友からの噂や忠告があったと思われます。真一は米軍からは正式な持ち出し許可証を手に入れ、日本での没収を避けるために骨壷に隠し持ち帰りました。

しかも、戦後この記録は、家族や近しい友人に見せることはあっても、世に出ることはなく、真一が急逝するまで、戦後30年間、銀行の金庫で凍結していました。

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ドキュメントの和訳文

捕虜収容所番号#2
ルソン戦争捕虜キャンプ#1
証明書

発行日:1946 年11月6日

これらがコマツ・シンイチ(捕虜番号番51-J-43984)の所有物であることを証明する。

ノートブック
 No.1~No.8 (日記) 
 全8冊

    所持を許可する(サイン)  

       ローレン D. プラット
       2nd Lt. Inf.
       捕虜収容所・司令官

3.読み続けられる「虜人日記」

帰国後30年、1973年1月、真一61歳、脳溢血で急逝しました。翌年、遺族が「虜人日記」を編集、私家版として出版しました。
その翌年、筑摩書房から市販され、1975年の毎日出版文化賞を受賞。文学作品としても高い評価を受けました。

「虜人日記」のあとがきを書いて下さった山本七平氏は、最初に私家版に出逢った時から長年にわたり、ご自身の多くの著作に「虜人日記」を論じ、いわゆる山本学を展開されました。

中でも『日本はなぜ敗れるのかーー敗因21ヵ条』(角川書店)では、日記の中の「敗因21ヶ条」を一項目づつを解説され「虜人日記」との対話をされておられます。

「虜人日記」(ちくま学芸文庫
<日本の敗因>P334~335)

3 types

私家版(上) 1974年発行

筑摩書房(左)初版1975年

ちくま学芸文庫 初版2004年

私家版から30年後『虜人日記』は、ちくま学芸文庫入りし、更に長く読み続けられている。

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