第3章:捕虜収容所の生活

捕虜収容所の生活

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期間:1945年9月〜1946年12月

 
・1945年(昭和20年9月1日)、PWになって収容所での生活から1945年(昭和21年12月11日)、帰国するまでの1年4か月の記録、雑感

・この間、収容所内で発生した諸問題を真一の科学者としての冷静な目で観察しそれを毎日記録した

・PW生活が安定してくると自然発生的に収容所内に暴力団が発生しのさばり始める。一方では文化的活動も活発におこなわれるようになる。これらは平和な今の日本でも同じ。収容所を通じての日米文化の相違も客観的に観察。

・いろいろな事象を真一は「日本の敗因 21カ条」としてまとめた。
これが後に山本七平氏に評価されることになる

捕虜収容所の移動マップ

真一は、ネグロス島で米軍に投降しネグロス島のサンカルロス収容所に送られ、その後、レイテ島、ルソン島と収容所を移動した後に日本へ帰国する。

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【目 次】

●真一の移動ステップ一覧

①ネグロス島
(米軍への投降~収容所への収監)

【1945年】

9/1: サンカルロス製糖工場広場 
9月: サンカルロス収容所 
※飢餓にあえぐ(栄養失調)

②レイテ島へ移動  
10/19: タクロバン収容所へ到着
10/20: タクロバン第3収容所へ収容
10/21: タクロバン第2ストッケードA
へ収容
11/ 5: タクロバン第2ストッケードB
へ収容
11/15: タクロバン第2ストッケードA
へ収容
12/14: タクロバン第4ストッケード
へ収容
   ※帰国者用収容所だったがぬか喜び
12/25: タクロバン第1ストッケード
   ※戦争犯罪用収容所に移る

【1946年】

3/26: タクロバン出港
   ※ルソン島への移動を命じられる

③ルソン島へ移動   
マニラ カランバン第1収容所
(船待キャンプ)
マニラ カランバン第2収容所
(船待キャンプ) 
4/15: マニラ近郊 オードネル
第一二労働キャンプ
10/28: マニラ カランバンへ
(帰国のため移動)
12/1: マニラ カランバン出港 ※帰国

④日本への帰還
12/8: 名古屋港 着
12/11: 静岡県沼津市 千本の家に帰宅
(疎開先)

1) ネグロス島・サンカルロス収容所

(期間:1945年9~10月)

●米兵との物品交換会
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サンカルロス
将校が日の丸を米軍歩哨の煙草と交換するの図
ちと、どうかと思う

●糧秣飢饉
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サンカルロスに於いて
武田大尉水浴を忘れ
蛙を捕えんとして
果たさざる図

●大雨
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サンカルロス
大雨の天幕内
水田の如く化し
寝る所なく
木枕の上に二夜を
明かす
小高き所は
蟻が集まり
こうするより
以外手なし

2) レイテ島・タクロバン収容所

(期間:1945年10~1946年3月)

●移動
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【上陸用艦船(約200屯)】

サンカルロスからレイテ島タクロバンの海岸迄
こんな上陸用の艦艇で輸送された
いきなりこの大きな船が砂浜に直接着き、上陸できるのには驚いた。
こうして戦車も自動車もこの口からどんどん吐き出されるのだからかなわない。

●傷病兵
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レイテ収容所内の御殿 (60~70人寝る)
仔犬も猫も飼っている

●栄養失調
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レイテではあまり見られん
ヤセ人種
残飯のオモライ

●首実検
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【〇〇事件】

現地人女の首実検 一列縦隊の行列
女の前を足早に通過
間違われては一大事
身に覚えのある者も無い者も余り心地良からず

女の前を通過する時は急に足早になる
「イカオ マテ マテ」等やられたら一大事

3千人もの若い男を一列に並べて見る、この女の「みょうがさ」よ!

鬼婆然? 千姫か?

●籠の鳥
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【雨】

天幕の飛ぶような大雨は困るが、春雨を思わすようなシトシトと降る雨は外業は休みとなり実に有難い。雨期になってからはこんな日が多い。
『外業者は雨がやむまで幕舎で待機』もうしめたものだ。

rain

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【PWいよいよ、お寝】

仕事が楽だった日は家のことがいろいろ考えだされ寝つかず。いかんわいPWいよいよお寝み

sleep

●山の戦友救出行
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畳へる深山の奥に魂魄もて 今にたたかう 戦友ありと聞く(山本大介)
昭和21年4月19日

ネグロス、パナイ島間の孤島イナンプルガンの隊長以下22名の海軍部隊
祖国の勝利を信じて奮闘中との報に、有富参謀、山本大尉等決死の救出作業に 投降。20日 レイテ収容所に収容さる(空輸)
軍規極めて厳正。久し振りに日本軍の再来を見た心地す
気力盛んなるも体力の減弱はあらそわれず感無量なり

「3年間の糧秣を準備しまして」

3) ルソン島・マニラ・カランバン収容所

(期間:1946年3月~4月)
●乗船
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輸送船
ハッチ内・・・船の昇降口

●P268~270:マニラ感想
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カランバン街道の子供
投石
バカヤロー
ドロボー
イカオ
バッチョンゾー

●カランバン収容所
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猿に水をかけて
エイソウ入り
〇〇大尉
プレートの文言:差入ゲンキン:

●カランバン第二収容所
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カランバン第2収容所
PW体操

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カランバン収容所
残飯、空缶あさり
風景

残飯もらい
ルソンの下駄売り
ルソンの空缶なめ
レイテの膨張缶拾い

※ドラム缶(左)の文言「空缶入」、ドラム缶(右)の文言「残飯入」

4) ルソン島・マニラ・オードネル第12労働キャンプ

(期間:1946年3月~4月~11月)

●第12労働キャンプ
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【ルソン島 第12労働キャンプの鳥瞰図】
こんなキャンプが45程このストッケード内にあり
人員数 約500名
一幕舎に14名が定員
各幕舎の入り口に一本のバナナあり

この柵の外に出ると気持ち良い
隣は米さんの兵営 バスケット、バレーのコートあり
米軍野球場
ガード
ラジオ、蓄音機等を持ち込みのんびりと 監視? 読書? 昼寝? 夜寝?
水浴及び洗濯、洗面所
便所
理髪所(理髪師3名)

第14幕舎・・・我々の住い
発電所
炊事

●便所掃除
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【米軍式野戦共同便所】

地中に巾約3尺、長さ約12尺、深さ9尺の穴を掘り、これに丸太を渡しこのような便所を作る。この便所3個で500人が約3ケ月使用することができる。地表2~3尺までになったら埋めてしまう。毎日、DDTを撒くので蠅は一匹もいず。皮膚病の伝染以外は極めて衛生的也。
唯、人前で尻を拭くあたり、不体裁也。女の共同便所もこれと同じ。
日本軍の駐屯するところ、必ず蠅と蚊の大発生を見ると言われたが、予防医学衛生学の進んだ米国だけに感心するところあり。

●演芸会
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【招魂の夕】

7月7日の夜「招魂の夕」として演芸会が盛大に催された。
何といっても女形が出ないと人気が沸かぬ。
海野見習士官の「娘船頭さん」、「隅田川」の舞踊と
うちの幕舎から出た杉江氏、関根氏の歌も良かった。

●外業
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【コンコールの製材】

比島独立後、労働者の数が減少し今迄比人が働いて居た製材作業までやらされるようになる。

コンコールの米さんは程度が悪いのに、今日の米さんはおとなしく裸になってPWと一緒に働く。気分よく働ける。

●シャワー
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PWが心のままに使えるのはこのシャワーの水と石鹸だけ也。
レイテでもカランバンでも水に不自由したが、この第12労働キャンプは良い水が沢山出る。
一日の疲れと汗と塵を洗じてやっと自分の体になる。
この水浴場では10人に1人半位の割でカラパインや迫等の弾創を受けているものあり。

●謡曲
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【六月三十日】

珍しく実に珍しく夕食を食器一杯にくれたので早速おらが幕舎で演芸会を開催
寝そべって楽しめるのが何より也

親孝行は富士の高嶺にさも似たり
・・・
・・・
・・・
吉田通れば二階から招く
これも鹿子の振袖で
・・・

岡嘉太郎太夫
吉田御殿の一席

●南十字星
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南十字星座
サザンクロス(散々苦労す)

この星を初めて見たのは昭和14年7月台東で防空演習の晩、かすかに見た。
南方へ行けば、この星が良く見られると聞いた。
そこであこがれに似たものを持っていたが。
ネグロスの山中生活の時はカンラオン山の上にこの星が輝いていた。
9月1日の投降後はストッケードのバクド線の上に毎夜現れた。
この星の見えない国に早く帰りたいものだ。サザンクロス(散々苦労す)とは良く付けた名だ。

●奴隷とPW
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外業 大工の現場

「一服やれよ」

「日向で休む馬鹿もいる」

●糧秣少なくなる
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ストッケード一の怪力関取日本海が薄いチーズをそれに釣り合った小さなパンに一枚宛て気の毒そうに配給する図。
これが国際法で決まったPWの食物とか、増配を所長に嘆願すれば「世界的食糧飢饉だ。PWだけが腹が減るのではない。」と言う嘘か誠かか知らねども、腹の減るのはたまらない。

 ●6月23日 日曜日の献立
   朝:ジャガイモ(乾燥)と肉のドロンコをカンテンカップに7分
   昼:グリンピースにソーセージ2本 カンテンカップに3分
   晩:ビスケット8枚 玉子とヨーセージの煮込みサジに一杯
 ●6月24日 月曜日の献立
   朝:右図の如きパン一つ、チーズ一枚
   昼:豆汁 カンテンカップに4分の1
   晩:ビスケット6枚、キャベツ、タンコン汁カップに一杯

●夜間作業
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【夜間作業で小野田セメントを運ぶ図】

日本軍用の小野田セメントを、こうして夜間作業で大型自動貨車から降ろされる。
一台に50キロ入り袋、250袋も積んであるので相当の量だ。このようなのが続いて2、3台も来ようものならpwもアゴを出す。又、セメントの埃にも閉口。
米さん曰く、「ジャパン セメント ノーグー」
理由は「クラッキングが入りやすいと」

●建設
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【外業 大工の現場】

「よかよか」

水準 「もう少し上げて」

「オイ福、この穴の位置、昨日みたいに間違いないだろうな」

「ワシヤ、知らん」

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【外業者集合】
朝7時からこうしてPWの一日が始まる。

今日も一日頭からカンカン照りつけられると思うといやになる。

「ラスコラスコ ハバハバ」

「ゲンスイの大工さん、早く出てください」

「二小隊の大工さん、五列に並んでください」

「暑いのにご苦労さんです」

「今週は糧秣が少ないぞ」

●帰国
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【日時計】
9時と3時に実体と日陰の長さが等しくなる。これにより外業先で「十一時半」、「4時半」の帰幕時間の見当をつける。

「まだ帰る時間にならないか? 腹時計だと大分廻ったが」

「あと、30分だ!  働け働け」

「福、帰る事ばかり気にするんじゃない」

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7月7日(月) 
   慰霊祭

PWの制服を着用、一同久々に整列
皆の横顔を見ていると、いつの間にかPWの服が昔の日本軍の軍服に変ってくる様な幻想にとらわれる。

●医務室入り 
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【医務室 治療風景】

毎朝、「診断患者集合」と医務室から大声で叫ぶが、これを幕舎で聞くと「死んだ患者集合」と聞こえる「死んだ患者が診てもらいに行けるかい」と言うのが我々の主張。

「下痢をしてから後、脊中が痛んでいけません。」

「肋膜でもやったことあるかね。」

「別に薬はないから、しばらく練兵休でもしなさい」とでも言ってくれるのは良い方也
「一日、3回位来ないと治りませんよ。」

「すみませんが尻のところにタムシができていませんか?」

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●カロリー計算
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●日記が描かれた風景
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【日曜日の幕舎内】

花札、碁、寝そべって歌(米山さんから・・)それぞれまちまちやっている図

絵具がないので医務室から薬をもらってきて色を出す。
アデブリンで黄、赤チンで赤というように。
菊皿代用は机の板、筆はマッチの軸木に脱脂綿を巻き付けたもので代用。
それでもどうやら絵ができる。

●建築
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【ブルドーザーの威力に感嘆する図】

土を一台で2立坪位自分でかき上げ、運搬して目的の所に降ろす。これも便利なものだ。
道路工事など訳がない。

「俺はもういやになったよ」

「カブト虫のお化けみたいブルドーザーという機械は大したものだ」

「我々はエンピと十字とモッコで飛行場や道路を作ったが、千人かかってやるところを、これ一台あれば一日位か?半日か? 大したものだ」

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【雨はコンコール泣かせ】

雨が降れば大工もキャーネルも休みなのが、コンコール40名口だけは日曜も夜も、昼の照ろうが降ろうがおかまいなく仕事をやらされる。
材料置場は泥田の如くぬかり、この中を材木をかついで雨の中を運搬するのは余り良い仕事ではない。
雨降れば大工喜びコンコールに泣く。

●帰国の際の日記の持ち出し許可書
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ドキュメントの和訳文

捕虜収容所番号#2
ルソン戦争捕虜キャンプ#1
証明書

発行日:1946 年11月6日

これらがコマツ・シンイチ(捕虜番号番51-J-43984)の所有物であることを証明する。

ノートブック
 No.1~No.8 (日記) 
 全8冊

    所持を許可する(サイン)  

       ローレン D. プラット
       2nd Lt. Inf.
       捕虜収容所・司令官


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