5カ月ジャングルで極限の食生活を・・・
そこで浮かび上がる『人間の本性』とは?
【目 次】
2.ジャングルでの食生活
- 2A)蛙の丸焼き
- 2B)毒ヘビ
- 2C)川蟹の串焼き & 蟹釣りの絵
- 2D)岩燕
- 2E)バッタ、イナゴ
- 2F)セミの串刺し
1.はじめに
1945年3月27日の夜、フィリピン、ネグロス島にもアメリカ軍が遂に上陸、大攻撃が始まった。
日米の圧倒的な戦力差に、日本軍はなす術もなく、真一がいたアルコール製造工場も自ら爆破し、ジャングルに逃げ込むのだ。
武器も食料も地図も、まるで準備のないままに。
~ジャングル内の地名について~
ジャングルに逃げ込んだ日本軍にとって自分達の地図を作ることは不可欠だった。
大きな山や川には最初から名称はあったが、その他の顕著な地形には日本軍が便宜的に(相撲取り・歴史上の)ネーミングした。
誰一人として経験したことのない非常事態の約半年間、ジャングルに逃げ込んだ数千人の日本軍と民間人は、必死に生きようともがく。
だが半数はアメリカ軍やゲリラにやられ、飢餓と病気で命を落とす。
生きるか死ぬかの極限の状態で、私たちは何ができるのか?
食べなければ自分が死ぬ。だから死にそうな他者も無視。死に物狂いで自分の命にしがみつく。
そして、この極限状態が長引くほど、人間は本性をむき出しにする。
これこそ、戦争の本当の恐ろしさ・・・
食用野草採集研究行
(イラクサ谷にて)
ジャングルにおける食事の実体験を動画にしました👇
『蛙捕り』
『電気イモとヘゴトロ』
『燕を食う』
『帰らぬ兵』
2.ジャングルでの食生活
当時の日本人にとって”食”と言えば”コメ”。
しかし逃げ込んだジャングルに持ち込めたコメ(糧秣)は僅か。
攻撃から逃げられても、食べ続けなければ生きていけない。米を炊くため雨の日も必死で火を起こせば、煙で見つかってしまう。
米軍になるべく見つからぬ場所で米を炊く
だが人間はコメだけで生きられない。動物食も植物食も不可欠で、さらに塩がなければ生命維持できない。
日本軍は生物学の常識を無視したため、飢餓と病気で多くの命が失われた。
2A) 蛙の丸焼き
味良し
2B) 毒ヘビ
毒蛇も首をくくられ、皮を剥がれて
焼かれて食べられてしまえば世話ねえ
2C) 川蟹の串焼き
山での珍味
神屋氏 マンダラガンにて蟹に
露命を繋ぐの図
蟹袋
一日 150~200匹
ヒルを餌にして釣る
2D) 岩燕
断崖の岩燕の卵、雛 共に珍味也
命がけの食欲
2E) バッタ、イナゴ
バッタ、イナゴ取り混ぜて
2F) セミの串刺し
セミは油臭くて
美味ならず
3.山地自活
山の生活は雨と湿気が多く、被服の乾く間のない様な日が続いた。それに持ち込んだ糧秣は米と肉だけで野菜に飢えてきたので、食用野草の調査を始める事とした。
幸い、神屋氏が牧野博士の『日本植物図鑑』をこの山まで持ってきて下さったのと、自分の持っていた月明の『食用野草図鑑』はこの調査に大いに役立ってくれた。
日本の草とフィリピンの草では大部違うが、それでも似たものや同じ属のもの等少しずつ食べてみて毒にならねばどんどん食べる事にした。その他、川蟹、昆虫、ヘビ、トカゲ等の動物も片端から食べて、山の生活、いや野生の生活に身体が一日も早く馴れる様に心掛けた。
(虜人日記、第2章「密林の彷徨」紙の書籍P103-105より)
羽黒台陣地での食用野草の講習会
『このイラクサの茎と葉が食べられます。』
4.切り込み隊
毎日の様に切り込み隊が数組出ていくが、敵は夕方引きあげるので切り込み隊も敵に損害を与える事はなかなか困難だった。
それでも、遠くの敵の幕舎へ切り込んだり、戦車、自働車を破壊する等勇敢な者もいたが、犬に吠えられて逃げ帰ったり、電探等にひっかかって殺されたり、土民に殺されたりするのはまだよい方で、ひどいのになると友軍の捨てた糧秣をたっぷり食べていかにも切り込みに行った様な顔をして帰る者、全く敵の方へ行かず裏山で遊んでいる者もいた。ただし、切り込みに行った者の大半は帰って来なかった。岩見准尉もその一人だった。
(虜人日記、第2章「密林の彷徨」紙の書籍P107-108より)
切り込みの戦果
カンデン(ヤギ?) バボイ(イノシシ?)
5.追いはぎ
糧秣のない部隊は解散して各自食を求めだした。そして彼等の内、力のない者は飢え死にし、強き者は山を下りて(比人)フィリピン人の畑を荒し、悪質の者は糧秣運搬の他の部隊の兵をおどしあげて追いはぎをやったり、射殺したり切り殺して食っていた。糧秣運搬中の兵の行方不明になった者は大体彼等の犠牲となった者だ。もはや友軍同士の友情とか助け合い信頼というような事は零となり、友軍同士も警戒せねばならなくなった。
(虜人日記、第2章「密林の彷徨」紙の書籍P132より)
6.電気イモとヘゴトロ
一日掛盒一杯の米では腹が減ってやりきれるものではない。そこで電気イモ(ショウブ科の里芋の原種の如き植物で、これに3種類あり。その1つは、ちょっとなめただけで舌が3時間位しびれる毒草。次は葉も茎も柔らかで実にうまく、3つ目は前者に良く似て区別がつかぬが葉と葉柄の緑が濃く、菖蒲(しょうぶ)と同じ香りがあり、その香りの為どう我慢しても食べられない。その第2の食用のものでも多少は舌にビリつく。この感じが電気にうたれる感じに似ているので、電気イモといいだした。今日の電気イモは高圧だぞといってよく笑ったものだ)・・・
(虜人日記、第2章「密林の彷徨」紙の書籍P135-136より)
真一はジャングルの中で
電気イモなどの葉っぱの特徴を手帳に記した
80年前に付いた汚れまで、今日にそのまま残る
7.ジャングルにて敵の放送
興津台、電台等のジャングル戦闘では、彼等の距離が接近したので、スピーカーで投降勧告を盛んにやった。
日本兵の捕らえられた者が、かわるがわる放送し、中には「近藤少佐殿、近藤少佐殿、私は〇〇上等兵です。今、米軍の手厚い看護を受けています」「ジャングルの中で野草やヘゴ等食べていたのでは助からないから一日も早く投降しろ」「私は〇〇兵長です。捕虜になって申し訳ございません。」等と言っていた。
また、勝太郎や市丸のレコード(当時の流行歌)を放送し、その他投降ビラ、落下傘ニュースも至る所にまかれた。ジャングルの出口、切り込み隊の通りそうな道にはポスター(友軍が捕虜になって、飯を食べたり遊んだりしている写真付きの物)がはられていた。
(虜人日記、第2章「密林の彷徨」紙の書籍P139-140より)
こんなビラをロッキードが撒いていた
8.人肉を食う
第一線の、敵と対峙している所では全く糧秣がないので、敵味方の戦死者の肉を食べて飢えをしのいだ大勢の人がいたというが、ミンダナオ島の様な事はなかったようだ。しかし、もう少し糧秣がなかったら同胞相食んだに違いない。人肉を食べん人でも、機会があれば食べてやろうという考えを持ち出し、それが誰も不思議だとも不道徳とも考えなくなっていた事は事実だ。
(虜人日記、第2章「密林の彷徨」紙の書籍P140より)
マンダラガンサ山を越えられず
命尽き白骨化した日本兵
9.食を求めて(※再現動画付き)
「大和盆地へ行けば芋がある」というデマが第一線に飛んでいた(芋苗をやっと植えただけなのに)。それで飢えた兵隊達が、大和盆地まで行けばと杖を頼りに来てみれば、案に相違しているのでがっかりして死ぬ者が続出した。ことに我々のいた谷から御嶽への登り口には死屍累々とし、死にかけた者、念仏を唱えている者、煙草と米と交換してくれとせがむ者等が100名近くも谷あいにいた。夜は霊火燃え惨を極めた。
「餓死したる兵の屍にわく蛆の生きはびこれる酷たらしきや」
(中塩清臣)
(虜人日記、第2章「密林の彷徨」紙の書籍P142より)
『大和盆地から御嶽山へ 登り口の絶壁』
再現動画は上記から
10.まとめ
虜人日記は1944〜46年までの約3年にわたる真一の体験が、米軍捕虜収容所内で絵と文章に記されました。それらの冊子は骨壷に隠し日本に持ち帰る事ができました。
真一が1973年に亡くなるまで銀行の金庫で凍結していたこれらのドキュメントは、今に生きる私たちに何を伝えようとしているのででしょうか?
当時の歴史的背景など私達も知らない事がたくさんありましたが、できるだけ調べて解説を加えYouTubeに動画として再現しました。
真一が伝えたかった、あの場での、あの瞬間を私達も出来うる限り経験したいのです。