28歳の真一は台東製糖(台湾)の工場長に抜擢。ガソリンに替る燃料ブタノールの生産実現に挑戦
台東製糖株式会社の酒精工場にて
(右側中央が真一)
1.ブタノール開発の歴史的背景
1939年、アメリカは日米通商航海条約を失効し、アメリカからの石油輸入は全面ストップする。当時、80%近くの石油をアメリカに依存していた日本は、石油から精製されるガソリンの代替燃料を確保することが急務となった。ガソリンが尽きれば、車も飛行機も動かなくなってしまう、国家としての危機的状況だ。
そこで、日本政府がガソリンの代替燃料として注目したのが、南方(台湾、東南アジア)に豊富に生育するサトウキビから精製できるブタノールだった。しかし当時、日本にはブタノールの製造技術が確立されていなかった。
大学で醸造/発酵を学んだ真一は、大蔵省醸造試験所、および農林省米穀研究所の研修員としてアルコール発酵の研究等に勤しんでいた。大学時代の恩師の推薦により、1939年から約5年間、台湾でブタノールを安定的に製造するため台東製糖の工場長として派遣された。
台東の実験室でブタノール開発の研究に励む真一
2.台東での幸せな生活
パパイヤの木が植わった台東製糖の馬蘭社宅前で
恩師、住江金之博士の推挙により、台湾の台東製糖にアルコール工場建設のため、新婚3カ月目に就任した。工場建設地の台東は、何と亜熱帯のぼうぼうたる原野だった。
生まれて初めて、基礎工事から建設機械の設置、試運転まで四昼夜徹してまでの努力は、真一の一生を通じても、最も充実した日々であったと思われる。
伝家の宝刀に磨きをかけ、万一の場合に腹を切る覚悟であったと述べている。それだけに、この国策としてのアルコール工場が一年余り後に完成した時の喜びは格別のものだった。
台東製糖の台湾人社員たちと
(中段の左から5番目が真一)
工場の責任者として、順調にブタノール製造を続け、現地の人々からも慕われた。(戦後、何十年も文通が続いていていた)死の前年には、30年ぶりに現地を訪れ、当時のままの工場と人々に、涙の再開をしている。
1972年、かつての台東製糖の仲間達と30年に再会
翌年、脳溢血で真一は他界する
(青い服の女性の左隣が真一)
足掛5年、台東で二人の男子をもうけ、幸福そのもの生活を送った。しかし、この平和も大戦とともに破れたのだった。
(参照元:私家版「虜人日記」あとがき<台湾時代>より、P308-309)
3.フィリピン行きが決まり台湾から日本へ戻る (動画付き)
貴重なガソリンに替るブタノールの製造技術者であった彼は、フィリピンでのブタノール製造に従事するように軍の要請を受け、1943年、家族と共に内地(日本)に帰還する。
台東製糖株式会社の酒精工場でさとうきびの汁からブタノールを製造する工業的試験に成功。酒精工場をブタノール工場に切り換え改造中のある日(1943年7月)台湾軍兵器部から出頭するように電話があったので、何事かと台北まで急行した。兵器部で今井大尉に合う。「身体は健康ですか?」と問われたので「健康だ」と答えれば、「ご苦労ですがフィリピンまでちょっと行って下さいませんか」という。フィリピンのブタノール問題のあった時だったので、資源調査にでも行くのだと思い、「行ってもよい」と答えた。すると今井大尉は机の引出しから書類を出し、「実は君、名誉の話で、陸軍省整備局長から橧口台湾軍参謀長宛の公電で”台東製糖株式会社清酒工場・小松真一をフィリピンの軍直営ブタノール試験工場設立要員として斡旋を乞う”」こう来ているんだかが是非行ってくれ・・・・
【虜人日記「比島行」(P9)】
台湾・基隆港
12月25日、富士丸、欧緑丸、鷗丸の3隻は駆逐艦1と飛行機2に護衛されながら堂々と基隆港を出発、13ノットの優秀船団で25,26日を無事航海した。
27日の夜半突然の砲声に一同飛び起きる・・・
【虜人日記「海難」(P11)】
欧緑丸(おうりょくまる)
「内地帰還」と「海難」の動画