小松君のゼマ公

小松君とゼマ公(文章:秦一郎)

朝倉書店発行の「愛犬手帖」より
昭和13年(1938年)10月号
2.zema

ありし日のゼマ 小松真一(絵)

7月21日の夕方である。例によって1日風通しの好い2階の座敷に陣取って拙著「愛犬訓育読本」のために最後の校正地獄に眒吟していると、女中が夕刊と一緒に一通の葉書を持ってきた。差出人は我親愛なる小松真一君なので、また轉居の通知か、河童の絵く繪たらうぐらいに考えて何の気なしに裏をひっくり返した私は、思わず階下の妻を読んだ。

「オーイ、ゼマが死んだって・・・・・・」

妻はすぐに上がって来て無言で葉書を受取ると独り言のようにつぶやいた。

「とうとう!可哀そうに」

文面は簡単に次のように記されてあった。

「毎日、お暑いことで、本の方はもうお済みですか? 小生毎日、醸造試験所の方へ行っています。

甚(はなは)だ突然ですが、昨夜10時にゼマ公が永眠しました。私は留守でしたが、庭から縁側に飛び上がって縁側で亡くなりましたそうで、私の帰った時にはまだ少し温かかったけれど、手の下しょうもなく、今朝庭へ葬りました。

満十歳、私の所へ来てから満7年間、良い犬でした。でも死んでくれたので安心して台湾へ行かれます。先ずはご通知まで、皆様によろしく、夜分でもお遊びにお出掛け下さい。」

永眠したゼマの絵

アイヌ人の墓標に習って作られたゼマの墓

先日も小松君が遊びに来た時に四方山の話の末、ゼマ公の話も出たが、相変わらず元気でいると聞いたのに、と両人共暫く茫然とした。

小松君へは仕事が済み次第、伺うつもりつもりだがと、簡単な悔みの葉書の末に一句書き添えて送っておいた。

 端居(はしゐ)して

 主待つ宵の

 永訣(わかれ)なか

小松君のゼマが小型の名犬として、エン・べー・カー・ユワ号と賞を争い、見事第一回の日保賞の栄誉を獲得して以来、足掛けもう8年になる。保存会の古顔連中には色々な意味で思い出の深い犬として最近まで生き残っていた唯一の存在かも知れぬ。それに私にはそれ以外にも色々懐かしい思い出もある。

zema pic1

真一(左)とぜま、日本犬保存会犬舎開場式にて

日本犬保存会の賞の絵

雪どけのぬかるみ道を妻と二人、初めて世田谷の斎藤さんのお宅を訪問した帰り、もうすっかり暗くなった夜道を散々捜し回ったあげく、山谷の小松君のお住居をやっと訪ねあてたが、あいにく、同君はお留守。それで祖母君にお願いして親しくゼマ公を見せて頂き満足して帰ったあの頃のこと。

先年、北海道、樺太へ犬行脚に出かけた際、最後に日高地方一帯の踏査を試み平取村字荷負のベナコリという淋しいアイヌコタンで偶然、ゼマの生家、川上吉太郎と呼ぶアイヌ人の家に辿り着き、ゼマ公の事が機縁となって吉太郎君の好意ある案内で3日間にわたり、更にその奥地の方まで雨人足を棒にしながらもかなり精密な調査を遂げて帰ることが出来た当時。

たまたま、その旅行の留守中、鎌倉の家に残して来たやはり北海道生れの小型メス瑠璃にシーズンが来て、妻の英断で東京のSを頼んでゼマ公にかけに行って貰い、首尾よくとまって小松君ともども名犬の作出を楽しみ合っていたが、樺太から苦心して連れ帰った樺太犬が不幸にして●されたデイステンバーにうちの犬3頭まで感染し瑠璃にもしまいに染って産後間もなく母子共に死亡してしまった。

それ以来、小型の良犬は中々めっからなかったけれど、やっと去年の1月、西宮の榊原元一氏の愛犬ポチのところに出来たゼマの子の牝(メス)を分けて頂き、両親犬とも日高産のところからホビボイの地名に因んで保美と名付けた。今年の2月末に2度目のシーズンが来たので、小松君とも相談の上、思い切って親子がけをして見ようという事になり、8日間も預かって頂いたが、メスが非常に神経質な奴で肝腎(かんじん)のところでオヤヂの襲撃を拒否するので、さすがのゼマ公も寄る年波は争はれぬものか、押し切ってまでの熱もなく、その道の大家三人まで立ち合って貰って、百方手をつくしたものの、到頭物にならず、いたずらに小松君ご一家をお騒がせしただけで折角(せっかく)の企画も水の泡になってしまった。因みにホビはその後、家に連れ帰って来てから二日目、紅潮を見てから實(じつ)に21日目にうちのトブ(やはり日高産で先年私の連れそった短毛の小型犬)と交配して立派に三頭を生み落とし、みんな元気に育っている。しかも、これも3人がかりでやっと2分間足らずのかりそめ事であった。この交配についてはいずれ詳しく書くつもりだが、交配の時間について色々の憶測が行われているので、ご参考までに一言しておく。

さて、ゼマとホビとの交配はこうして不首尾に終わったとはいえ、これは●ちゼマが老いぼれているというわけでなく、現にその1月前に北村氏の愛犬と立派に交配が成立したとか、まったく10歳の老犬とは見えぬほど●●たるもので、散歩になど連れて行ってよその犬や猫でも見かけようものなら、その●幕は凛凛として●犬を凌ぐ●があった。ただ、一昨年だったか、近所の土佐犬と一騎打ちを演じ、噛まれて惜しいかな片耳は垂れて了つたが、依然として意気は衰えず、すこぶる元気であった。もっとも、フィラリアのためでもあろう、最近はだいぶ肥満してきていたけれど別に弱った様子や醜い(みにくい)という事もなかった。かえって一層どっしりとしてきて、小兵ながら威厳が備わり、どことなく老哲学者のような風貌を持っていた。いつか、小松君の姉君の学校の先生をしている西洋婦人が来てゼマを見るや

「コレ、ハチ公のムスコさんですか?」

と言ったというが、実際、晩年のハチ公を彷彿させるものがあった。

ゼマは往年小松君 北海道巡遊の際、日高の川上吉太郎のうちで見染めて置いた子犬をその後、成犬になってから●つて貰って愛育された名犬だが、満7年間あの代々木の山谷に小松君と起居を共にし、役所の暇々に出かける同君のお供をしては奥日光を始め、各山間地を●渉し、素手で乗込む小松君の●にウサギやヘビなど時ならぬ獲物を捕らえて来て主人公を有頂天にさせてものである。私の家のトブがやはり日高のマタギが使っていた猟犬なので是非一度一緒に犬を連れてお互い素手の猟天狗を気取ろうじゃないか、と楽しみにしていたのに、小松君の病気や何かでとうとう果たせなかったのは返すも残念な気がする。

蛇と戦うゼマ

山兎を獲得するゼマ

先日、悔みがてら小松君のところを訪ねたら、母君が

「ゼマはほんとに惜しい事をしました。
死ぬ日にはあいにく真一は留守でしたが、どうしたのかその晩はたいへん吠えて縁側に上つたかと思うと、間もなく息が絶えました。尾籠な話なお話でエライ失礼ですが、人間で申しますとカニババという事までちゃんとして死にましたの」

と眼のふちをうるませた。小松君の御一家の方々のご落胆もさぞかしと思われるが、雪の朝も雨の夕も長い年月、片時も傍らを離れなかったゼマと別れた小松君の洋々たる前途を祝福しながらも

「ゼマはどうするの?」

とすぐに私は尋ねた。

「置いて行きますよ。暑くて可哀そうだもん」

と言下に答えて例によって江戸っ子らしく淡泊に笑ってみせたが、どこか淋しそうだった。私はその時しみじみ小松君のゼマに対する愛の深さを知った。

先日、小松君が見えた時、同君はゼマの思い出を文や書に現した一幅の書帖を取り出して私にも●●を所●された。私はその任にあらずと固●したが、その書帖には齊藤弘氏始め、ゼマにゆかりのある諸家の書や文がいっぱい記されていた。
その後、又見えた時、その書帖は3冊となり、1冊は同君が殆ど一人でゼマ百態を揮●されたものであった。小松君の●才のあることは同君の最近、稽古し始めた河童の●によって敬服していたが、河童の方はどうやらお友達の書家にお株を譲ったとかで、此頃は専心ゼマの絵ばかり書いている。

河童に叱られるゼマ

段々絵が奔放(ほんぽう)に●熱して、冴えて来た。アイヌがゼマを連れて丸木舟に乗り、沙流河を渡る絵や、ウサギを狙って宙に躍り上ったところ、ヘビを咬えて得意そうに振り回しているところなど、中々面白く秀逸な書題に富んでいる。ここに揚げたゼマの横顔は、先夜遊びに行った時に同君のものした下書に過ぎないが、なおその書技の一端を窺うことが出来よう。私はしかし、同君の書才に敬服する前に紙背に隠されたその愛情の美しさに心打たれた。

アイヌがゼマを連れて丸木舟に乗り、沙流河を渡る絵

ゼマがウサギの捕獲で飛上る時の絵

そのうち、私もゼマを偲ぶ佳句を得たなら進んで書帖に秀筆を揮はして貰おう。それにしても主人にはかくも愛され周囲からこんなに慕われるゼマ公はほんとに果報者だ。聞けばゼマの直●は既に40頭以上にも及んでいるという。

「人間で云えばまあ松方さんというところですね。」

いつか同君はこう皮肉ったが、ゼマが死んで小松君も心置きなく●●に立って行けるだろう。北国からイの一番の名犬を捜しあてて来た君が、今度は南の国から生番犬の素晴らしい逸物を家●に、いや、第二のゼマ公を連れ帰る日を楽しみにしている。行けや君!

ペナコリのアイヌコタンに神代より正しく受けし血の●れはも

よき主を慕いて遠く蝦夷地より
貰われ来つる犬の子あはれ

「●でなし」ゼマとは呼べどなかなかに
花も宝もある犬にやはあらぬ

魂きはるいのちのひまも忘れ得ぬ
主の面影狗のみぞ知る

朝倉書店発行の「愛犬手帖」より
昭和13年(1938年)10月号

原文

【P59】

【P60】

【P61】

【P62】

【P63】

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