第1章: 漂浪する椰子の実

漂浪する椰子の実

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期間:1943年7月〜1945年3月

 
大東亜構想を押進める日本への制裁措置として、連合国側は石油の供給を絶った。日本軍にとって飛行機や自動車を動かす代替燃料ブタノール生産が生命線となり、真一の専門知識・技能・経験には大きな期待がかけられていた。1)台湾より引き揚げ 2)マニラ赴任 3)決死のレイテ行き島巡り 4)ネグロス島で酒精生産に邁進、そしてジャングルに逃げ込むまでの1年半の記録。

【目 次】

1)台湾より引き揚げ

【1943年】

7月(31歳) 台湾軍兵器部より呼び出し。酒精燃料生産指導をしに戦地フィリピンに行くよう命を受ける。

10月25日(32歳)台湾から家族4人で日本に引き揚げることを決意。当時、日台間の大方の船舶は既に撃沈され、残っていたのは富士丸、鴎丸、欧緑丸だけだった。この3船団で、駆逐艦と飛行機に付き添われての渡航中、2艘は目の前で撃沈され、家族が乗った欧緑丸のみ、魚雷が命中するも不発で奇跡的に助かる。

10月30日 神戸港に入港 東京の両親の家に身を寄せる。

12月4日 最新の酒精製造技術研究のため朝鮮に渡航。無水酒精製法(ショウラー法)見学

【1944年】

1月16日 樺太に渡り王子製紙の亜硫酸パルプ廃液利用法見学

1月22日 陸軍専任嘱託を命じられる。(兵士ではなく軍属)
 
2月22日 家族(妻と2男子)を沼津(由紀子の実家)に疎開させ、出発の準備。

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出発直前の家族写真 中央両親、右側姉家族

2)マニラ赴任

期待に応えるべく張り切ってマニラに着いた真一は、危機感の全く欠如したマニラに呆れ、真一の赴任にさえ無関心なのにがっかりする。

2月29日  各務原(軍用飛行場)より重爆撃機に便乗、途中那覇、台湾に寄り

3月2日 ルソン島マニラ着  パサイのルビオスアパート宿泊
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重爆機キノ21

各務原-マニラ、マニラ―セブ、ネグロス-マニラ、マニラーネグロス

の間を南京爆撃で鳴らした重爆機21に便乗

いつも突先の無線室の前に座らされた

4月29日 高等官専用のベビューホテルに移動 マニラに赴任している高等文官(軍属)達は軍部の馬鹿げた決定を非難するだけ、逃げ場のないマニラで、逃避する以外何も出来ずにいた。 真一はルソン島内の酒精生産の実態調査を開始する。 当時生活物資が欠乏していた日本に較べて、マニラには豊かな物資が溢れていた。 真一は日本の子供に麻服、靴などを送る。

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【兵を誘う街の女達の図】
昭和19年春頃のマニラ
イサフリペラの辻君達
戦争準備は大丈夫?

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山下大将着任前のマニラ
サイパンは陥落したと云うに

7月 椰子調査をするも、資材調達困難が判明、ルソン島でのブタノール生産は中止と決まる。ならばと、帰国申請するも却下される。 マニラ赴任以来、日本に残した妻子への手紙を書き送り続けた。
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マニラから送られた靴と麻服 由紀子は妊娠7ヶ月

3)決死のレイテ行き島巡り

決戦間際のレイテ島から酒精生産の指導要請があり、途中ネグロス島とセブ島にも指導に立ち寄る事となる。当時、既に日本軍は制空、制海力を失っており、島から島への移動は危険極まりなかった。標的のようにさまよう死と隣り合わせの2ヶ月半のレイテ行き。
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決死の島から島への移動

【1944年】

8月23日 マニラよりネグロス島バコロドへ重爆機キノ12に便乗、ネグロス島の酒精生産の重要性を認識する。

8月30日 セブ島へダグラス機にて飛ぶ。

9月9日(2週間滞在) レイテ島タクロバンに行く予定が、途中のオルモックまでしか行けず。便乗した機帆船は、真一が下船したのち、タクロバン入港直前に撃沈される。レイテの治安は極めて悪く、町の一歩外に出れば、たちまちゲリラに襲われるほど。

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カモフラージュした機帆船のイラスト(家族宛の手紙より)

9月23日(33歳) レイテからセブ島に戻り、夜明けに入港。老朽船 日吉丸は真一が下船した30分後空爆され撃沈される。セブ島は既に壊滅状態にあり、滞在中は連日空襲に遭う。

9月29日 マニラへの帰還は無理かと思われたが、パナイ島へ爆薬を輸送する機帆船があり便乗。命懸けの夜間渡航。

9月30日 ネグロス島バコロド行きの船にて夜間渡航 <疎開先の沼津で三男(孝行)誕生>

10月3日 ダグラス機でマニラに戻ることができた。レイテにまで行き、生きて帰ってこられた事を、誰からも不思議がられた。

10月17日 レイテ湾日本海軍壊滅的被害 20日には米軍レイテ上陸

4)ネグロス島で酒精生産に邁進(5ヶ月間)

【1944年】

11月3日 ネグロス島が比島全体の航空要塞となることに決まり、酒精大増産が絶対不可欠となり、真一にネグロス行が命じられる。これは 死地に行くのと同じだが、国の危機に自分を活かす働きがいを感じ、キノ12に便乗しネグロス着。

しかし、ネグロスに着くやいなや、空の要塞ネグロスのお粗末な実態を目の当たりにする。連日の米軍の爆撃に対し、日本軍は手も足も出ない。一方、真一はネグロスの酒精4工場を精力的に巡り、それぞれに創造的な問題解決をなし増産に邁進。

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【詳細地図】
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【指導・育成内容】

■バコロドを拠点として各酒精工場を指導
 ・ロペス工場
 ・マナプラ工場
 ・タリサイ工場
 ・ビナルバカン工場

■ゲリラ、空爆の危険地帯を泊まり、通いで指導育成

■各工場は空爆で破壊されるなか、立て直し策を提案し実現
【第1次対策】
 1) 兵力の酒精製造投入
 2) 兵力で糖蜜を各工場へ運搬
 3) 薪を兵力で収集

・ポンテペトラ糖蜜タンク ➡ ゲリラ襲撃
・燃料班編成(11/25)

【第2次対策】※空爆対策
 ロペス、タリサイ、ビナルバガン壊滅し、残るはマナプラ工場のみ
  1) マナプラの蒸留器一つをビクトリヤスへ
  2) ビナルバガンの蒸留器をバコロドへ
  3) タリサイの蒸留器一つをラカロタへ



11月25日 岡本部隊長の下に燃料班が結成され、真一は存分にリーダーシップを発揮できるようになった。

12月6日 日本空軍はレイテ島に大編隊で総攻撃をかけるが大敗。大半の飛行機を失った日本軍はその後、特攻攻撃しかできなくなってしまう。

12月12日 ネグロス在住邦人男子45歳以下全員が兵として招集される。

12月15、21、22日 ロペス工場爆撃され大破。空爆の度に奇跡的に命拾いを重ねる。

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ロペス酒精工場
爆撃で全壊したボイラーの代わりに機関車を総動員する

【1945年】

元旦 酒精で即席ウイスキーを製造、ネグロス全軍に配給。ネグロスに来てから、危険の中で昼夜を問わず働き続けた真一は、存分に自分の能力を発揮することができ、毎日が充実し、いつでも死ねる気持ちでいた。

1月17日 タリサイ工場大爆撃 14回もの波状爆撃に、何度も繰り返して命拾いをする。
日本軍の窮状が増すと共に、ネグロスのインフレは悪化し経済も破滅状態。ゲリラ攻撃も日毎に危険を増す。漂流兵からレイテ全滅を知らされ、ジャングルへの逃亡の準備を始める。

3月10〜26日 酒精工場が次々壊滅させられ、燃料不足が逼迫する。そこで真一は製糖工場(ビクトリアス)で、砂糖を利用し、大破した他の工場から蒸留機を移動し、酒精生産する事を思い立ち成功。岡本部隊長から賞詞を受ける。

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真一が尊敬していた岡本部隊長から受けた賞詞

3月30日 アメリカ軍ネグロス島上陸。工場を自ら爆破しジャングルに逃げる。 

米軍ネグロス島へ上陸
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ビクトリヤス
火災に包まる

※建設した工場を爆破する

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落ち武者

真一の移動マップ

A) ブタノール生産・指導活動 移動マップ

■期間:1944年8月23日~9月30日
■参考ページ:36~49ページ(虜人日記・第1章「漂浪する椰子の実」)

真一はルソン島マニラに赴任(1944年3月2日)以来、予定されていたルソンでの活動は戦況の悪化と共に打ち切りとなりました。しかし、決戦間近のレイテ島からの要請で、8月23日にマニラを発ちセブ島、ネグロス島にも立寄り生産指導に行きました。米空軍の出撃の合間をかいくぐり、船と飛行機でフラフラとさまよい、9月30日にマニラに戻れた事が奇跡の40日間でした。

10月20日から始まる「レイテ島の戦い」による米軍上陸の前から各島において海上は爆撃、空爆、海上ゲリラ出没、友軍機、船多数沈没が起こっていました。

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① 出発日:昭和19年(1944年)8月23日 【移動手段:飛行機(キノ12)】 
(出発)ルソン島マニラ ⇒ (到着)ネグロス島バコロド 
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真一が移動に利用した飛行機

② 出発日:8月30日 【移動手段:飛行機(ダグラス機)】 
(出発)ネグロス島バコロド ⇒ (到着)セブ島セブ 
※セブ島、空襲で大半の友軍機が焼失     

③ 出発日:9月9日 【移動手段:船(機帆船)】 
(出発)セブ島セブ ⇒ (到着)レイテ島オルモック  
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米軍からの爆撃を避ける為、草木で船をカモフラージュ

④ 出発日:9月23日【移動手段:船(日吉丸)】 
(出発)レイテ島オルモック ⇒ (到着)セブ島セブ
※日吉丸、セブ島に到着後に沈没(真一は命拾いする)
      
⑤ 出発日:9月29日【移動手段:船(爆撃輸送船)】 
(出発)セブ島セブ ⇒ (到着)パナイ島イロイロ 
※イロイロ、空爆で街焼失  

⑥ 9/30 【移動手段:船】 
(出発)パナイ島イロイロ  ⇒ (到着)ネグロス島バコロド  

⑦ 9/30 【移動手段:飛行機(キノ12)】 
(出発)ネグロス島バコロド ⇒ (到着)ルソン島マニラ 

B) ネグロス島での酒精生産活動マップ

■期間:1944年11月3日~1945年3月29日
■ページ参考:53~93ページ(虜人日記・第1章「漂浪する椰子の実」)

ネグロス島はフィリピンにおける日本軍最期の航空要塞となっていきました。ブタノール唯一の生産拠点を託された真一は、空爆や銃撃、ゲリラ攻撃にさらされながら、命懸けで島内の工場を移動しながら酒精生産に邁進しました。そして米軍の上陸と共にジャングルへと逃げ込むまでの5ヶ月間。

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【詳細地図】
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【移動日程】
①1944年.11/3 ネグロスへ酒精大増産大命
 9/12 空襲以来各工場生産急激に悪化
 問題山積みで各工場泊まり込み指導

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十一月三日
サラビヤ飛行場
空襲直後の着陸
四式戦の無残な焼け残り

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四式戦闘機の参考写真

②シライからバコロド(生活拠点)へ移動

③11/2のポンテペトラ糖蜜タンクゲリラ襲撃事件の現地調査(米糖コプラミール代用)

④11/5 コンソリ大空襲(各地被害)

⑤12/6 レイテ総攻撃(大編隊終結)

⑥412/20 邦人45歳以下全員召集

⑦ルソン島に敵上陸

⑧11/25燃料班編成し酒精増産図る

⑨12/15ロペス工場コンソリ爆撃で大破

⑩12/22コンソリ爆撃各地実態調査(爆撃で何度も命拾い)

⑪12/25ロペス工場ボイラー大破(機関車3台でボイラー代用)

⑫1/1 タリサイ 正月用ウイスキー製造、配給

⑬1月 昼間の自動車運行禁止(夜間のみ)
  毎夕バコロド~タクロバン間徒歩で通勤

⑭1/17タリサイ工場大爆破 2時間で14回爆撃(命拾い)・・・復旧に一か月)

⑮1/17 空爆対策(各工場の蒸留器をビクトリヤス、バコロド、ラコロタに一部移設)

⑯1月 タリサイへの鉄道での砂糖運搬ゲリラ親分と交渉8(バコロド間)

⑰2月 ロッキード盛んにビラ撒く
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【投降勧誘のビラ】
「日海空軍は何処へ行ったのだろうか」
こんなビラを盛んにロッキードが撒き散らしたが大した効果はなかったようだ

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ロッキード機の参考写真

⑱2月初 マナプラ薪満載機関車略奪

⑲2月レイテ島より友軍漂流兵着(カデス)
 レイテ真相を知り山入り覚悟、準備急ぐ

⑳2月山岳戦方針決定(山籠り)
  ギンバラオに食糧、弾薬、兵器等集める

㉑2月バコロドからファブリカへ危険を冒し指導(三八銃で対応)

㉒3/10 ビクトリヤスに新酒精工場建設
   (マナプラより蒸留器移設)

㉓3/21賞詞頂く(ネグロス酒精生産功績)

㉔3/19 パナイ島(イロイロ)に敵上陸

㉕3/30 米軍ネグロス上陸

㉖3/30 ビクトリヤス工場 自ら爆破し入山

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