虜人日記|若き技術者が戦地で残した奇跡の記録


あの時、あの場所で描かれた奇跡のドキュメント、虜人日記
第一章:漂浪するヤシの実、第二章:密林の彷徨、第三章:虜人日記
カラフルな絵日記の説明
矢印書籍版虜人日記
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博物館特別展示(期間限定)
虜人日記・プロローグ編/前半)
虜人日記・プロローグ編/後半)
マニラの生活
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1.はじめに

近い将来、太平洋戦争を経験した生き証人は一人もいなくなってしまいます。
そうなると、本当に知るべき重大な真実まで消えてしまうのでしょうか?

いえ、証人は消えても、証拠は生きています。
当時の戦地で記された日記が証拠として存在しているからです。

戦時中起きた事実を示す大方の資料は、敗戦と同時に日本軍によって、意図的に焼却されてしまいました。
その中で「虜人日記(りょじんにっき)」は戦地から骨壺に潜んで持ち帰られた一次史料です。生き証人の証言が、時代と共に再構成され、変化して行くのはごく自然のことです。
しかしこの日記は、戦後社会の大きな意識転換に沿っても、加筆修正などされず、そのまま凍結していた、稀有で貴重なドキュメントです。

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この史料は小松真一(こまつしんいち)という一個人の体験録です。彼自身が見聞き経験した、あり得ないような事実=誰もが否定したくなる真実が描写されています。それらをどの様に解釈し、どの様に反応するかは、まさに受け手の私たち次第なのです。

彼が究極の経験を重ねたからこそ、事実は淡々と語られています。センセーショナルに伝えようとする意図がないのです。それがかえって読者には、自らがその時その場に居て、真一の側で経験している様な、生の反応を可能にするのです。

2.虜人日記博物館へようこそ

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著者の小松真一が生還するまでの3年半に及ぶこの体験は、フィリピンの捕虜収容所で記されました。
豊富なイラストと文章は、戦後30年経ち、筆者の死と共に遺族により編集され、書籍になりました。(現在ではちくま学芸文庫)

そして更に40年後の2013年、未公開の資料も含め、虜人日記WEB博物館」が創られました。

記録を残すことなど不可能な過酷な状況下で、
真一はなぜこのドキュメントを残したのか?

その答えを追求し博物館を機能させることが、私たちの使命です。
日記が書かれた時代の言葉は現代人には古典的になって来ました。
また言語も文化も異なる世界中の人々に、真一が伝えずにはいられなかったことを、どの様に伝えて行けるのか。

経験したくない異常体験を通して得た、この重い真実を、世代や言語を超えて世界中の人々と分かち合う意義は重大です。
虜人日記の存在やその意義を、広く知っていただくことが、何より最初に必要な大仕事です。
私たちにもよく分からない史実を紐解いたり、外国語に翻訳したり、膨大な仕事が山積みです。
英語で虜人日記を読みたい」、そして映画化やTVシリーズ化で「誰にでも分かりやすく体験したい」という要望もこの7年間で次第に強くなって来ました。

託された使命を私たち遺族に留めておくには我々は非力です。
虜人日記に共感し、この真一の遺志を読み取ってくださる方々のご協力を是非お願いし、前進させて行きたいのです。

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3. 虜人日記ってどんなストーリーなの?

虜人日記の3部作紹介 デザイン:虜人日記博物館、小松志行

32歳になったばかりの小松真一は、妻と2人の子 を残し、フィリピンの戦場に送り込まれました。石油供給を断れた日本軍は、代用ガソリンのブタノールを発酵・蒸留で量産する先端技術者(軍属)として真一を徴用したのです。

家族と共にいったん台湾から日本に戻りフィリピンに渡り、思いもよらない過酷な現実に次々遭遇しながらも奇跡的に生還しました。
出征から帰還まで3年余りの体験が、次の三部からなる構成で「虜人日記」としてまとめられました。

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4. 著者の小松真一ってどんな人?

1911年(明治44) 東京日本橋の大店の長男として生まれ、のびのびと不自由無く育ちました。しかし、世界恐慌の嵐が吹きあれ、日本も第二次世界大戦へと巻き込まれていく青春時代、父親が真一名義の事業に失敗したため、大学卒業と同時に真一自身が破産宣告を受けてしまうことになりました。

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5. 過去、どんなメディアで取り上げられた?

NHKニュース、真一の孫、小松志行氏へのインタビュー
虜人日記は、これまでテレビ、新聞、雑誌など様々なメディアで取り上げられてきました。

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6.青春時代、真一は、大の愛犬家だった?

真一とぜま
「ぜま一代記」は、真一が「虜人日記」をフィリピンの捕虜収容所で完成させる8年前の1938年に描かれた作品です。日本が太平洋戦争へ突入する前の時代に、愛犬のアイヌ犬ぜまとの青春時代を描いたものです。

当時、真一は26歳の若者でした。愛犬や友人達と共に日光に温泉旅行へ行ったり、趣味の絵を楽しんだりしていて、現代の若者とも共通するところもあります。

ただ、当時の真一は、後に戦地フィリピンでの地獄の生活は想像もしていなかった事でしょう。

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7.戦地フィリピンに向かう前、なぜ真一は4年間、台湾で生活したか?


恩師、住江金之博士の推挙により、台湾の台東製糖にアルコール工場建設のため、新婚3カ月目に就任した。工場建設地の台東は、何と亜熱帯のぼうぼうたる原野だった。

生まれて初めて、基礎工事から建設機械の設置、試運転まで四昼夜徹してまでの努力は、真一の一生を通じても、最も充実した日々であったと思われる。

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8.エンジニアの視点から見た真一の行動とは?


戦前の日本は、石油をアメリカ合衆国に大きく依存していたが、1940年の対日制裁により石油の供給が断れた。国の基盤は崩壊し、備蓄した石油が枯渇すれば車も船も、飛行機を飛ばす事も出来なくなる。切迫した日本は1941年真珠湾攻撃により戦闘の火ぶたを切った。

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9. 戦地から最愛の妻への手紙では何を伝えた?

フィリピンから妻に宛てた手紙
1944年3月5日発送分

生きて再び会えるかどうか分からない現実に巻きこまれ、愛する家族と引き離された者が、伝えずにはいられない思いを想像できますか?

どんなに遠く離れていてもインターネットで自由につながれ、平和が当たり前な時代には考え難いことです。

戦地に送られた何百万人もの兵たちと、その留守家族はどのように心を伝え合ったのでしょう? 交信手段がかなり限られていたのは確かです。そうした中で真一は頻繁に家族に手紙を書き送りました。民間人とはいえ上級の軍属でしたから、軍務で日本へ飛行往来する知人に手紙を託すなど、色々工夫もこらしました。

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虜人日記博物館・館長 小松志行

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