小松真一とは?

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小松 真一 (こまつ しんいち)
戦時中、アルコール技師としてフィリピンへ赴任し、
後に捕虜となり、その体験を収容所で日記に記す。
著書:虜人日記 (りょじんにっき)
(1911年 – 1973年)

【青春時代】
真一が日記を書いたのは、フィリピンに軍属として派遣された32才から、生還するまでの3年間のことである。
1911年(明治44) 東京日本橋の大店の長男として生まれ、のびのびとした環境で育つ。だが、父親が真一名義の事業に失敗、自身は大学卒業と同時に破産宣告を受ける。
幼少から剣道に親しみ、曉星中学時代から東京農大、そして卒業後も登山やキャンプ、ハイキング、渓流釣りなど、自然に遊ぶことが大好きだった。身体は痩せて細かったが、いたって健脚であった。
母方の祖父や親類の影響で、質素な侘び寂びの美学を自然に身につけていた。それが、どのような状況にあっても、柔軟に「今」を生ききる知恵となり、生涯豊かに風流を貫いた。
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愛犬家の真一(1937年、真一26歳)

 
 学生時代から日本犬保存会設立に関わる。北海道日高にアイヌ犬調査のおり見つけた名犬を入手。山河を共に過ごしたこの犬は、真一が結婚するまで青春のパートナーであった。後に絵本「ぜま一代記」を残している。
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愛犬の日記「ぜま一代記」

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【ブタノール生産の先端技術者として戦場に】
東京農大で醸造醗酵を学ぶ。父親が真一名義で投資した事業が失敗し、真一自身が卒業と同時に、破産宣告をうける。給与を受け取れない状況が、大蔵省醸造試験場、そして農林省米穀利用研究所と、7年に及ぶ醗酵の研究生活を続けさせる。それが台湾でのブタノール工場建設の特命を受けることにつながる。連合国に石油を断たれた日本軍にとって、ガソリンの代替燃料確保が死活問題となっていたからだ。
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発酵微生物の研究をする

台湾への赴任直前に結婚。ハネムーン4年の間にブタノール量産に成功。この間、太平洋戦争に突入。1943年、軍部からフィリピンでのブタノールの生産指導を命ぜられる。
軍属とは言え、死の危険をかいくぐり続けながらフィリピンの島々を行来し、ブタノール生産に没頭、最後はネグロス島のジャングルで生き残り、敗戦を迎え捕虜となる。
この命懸けの2年間の体験と、1年半に及ぶ捕虜生活を収容所内で記録し(虜人日記)それらを日本に持ち帰る。
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【戦後はゼロからのスタート】 
戦災で家財は全て焼失したが、家族は無事。帰国後はゼロからのスタートとなった。
食品、醸造関連の事業をてがけ、晩年は飲料アルコール原料の共同購買組織をつくり、原料の開発輸入など、醸造技術者の専門性と創造力を生かした。組合員の酒造事業社からの信頼も篤かった。
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三男一女の父。1773年脳溢血のため逝去、享年61歳。
1974年 遺族が虜人日記を私家版として公開。
1945年 筑摩書房から刊行され、第29回毎日出版文化賞受賞

【略歴】
1911年(明治44)東京日本橋・横山町で生まれる
1923年(大正12) 関東大震災
1929年(昭和4)暁星中学卒業 東京農大入学
1932年(昭和7)東京農大農芸化学科卒業 大蔵省醸造試験場入所
        日本犬保存会設立と同時に理事就任
1934年(昭和9)農林省米穀利用研究所入所
1939年(昭和14)台東製糖入社 秋鹿由紀子と結婚 台湾に赴任
1941年(昭和16)太平洋戦争勃発
1943年(昭和18)フィリピン行きの命を受け、台湾から家族全員で日本に引き揚げる。
1944年(昭和19)家族を妻由紀子の実家に疎開させ、マニラに赴任。島々を命懸けで行き来し、最後はネグロス島。
1945年(昭和20) アメリカ軍の上陸と共にジャングルに逃げ込み、半年間生きながらえる。敗戦と同時に捕虜となる。
1946年(昭和21) 年末に日本への帰還
1947年(昭和22)藷類加工技術研究協議会(農林省外角団体)設立 常任理事
        久美愛化学工業(株)取締役工務部長
1950年(昭和25)同社退社
1951年(昭和26)東京農産(株)翌年解散
1955年(昭和30)小松真一事務所
1959年(昭和34)北日本蒸留酒業者原料購買協同組合 設立
1965年(昭和40)日本アルコール原料共同組合に社名変更 
1973年(昭和48)脳溢血のため死去
1974年(昭和49)私家版『虜人日記』刊行
1975年(昭和50)筑摩書房『虜人日記』刊行 毎日出版文化賞 受賞
2005年(平成4)ちくま学芸文庫『虜人日記』発行
2013年(平成12)真一・由紀子の法事で家族全員が集まり『虜人日記博物館」の設立を決める

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